螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

宮沢賢治を朗読しながら襲い掛かってくるオーク

 「時間」と「空間」の関係も、これに近い。
 両者はそもそも厳密に区別ができるものではないのだ。
『――陥りくらむ天の椀から 黒い木の群落が延び――』
  ゆえに、ヴォルダガッダは永遠を理解した。
 もしも「原因でしかないもの」と「結果でしかないもの」がありえないのだとしたら――究極の原因たる「宇宙の始まり」や、究極の結果たる「宇宙の終わり」もまた、ありえないことになる。
 で、あるならば、時間とは大いなる円環を描いて回帰するものである――そう断言できるということだ。
 つまり時間は無限である。
 これに対し、空間は有限である。この宇宙の総容積がいかほどのものであるのか、ヴォルダガッダには計り知れないが――それでもどこかに果てはあるはずだ。
『――めいめい遠くのうたのひとくさりづつ 緑金寂静のほのほをたもち――』
 この非対称性に、答えはある。
 時間が無限であるのに対し、空間が有限であるのだとすると、物体を構成する微塵の配置、並び方が、まったく同一の瞬間というものが何度も無限に繰り返されてきたはずである。
 永劫に回帰する輪廻こそが宇宙の実相。
 だが、その構造の中で、ヤビソーが存在している期間はほんの一瞬である。それ以外のすべては、ヤビソーの存在しない無意味で空虚な時間である。無限と、永遠は、違う。
 ヴォルダガッダには、それが我慢ならなかった。
『――これらはあるいは天の鼓手 緊那羅のこどもら――』
 解脱せしめねばならない。
 ヤビソーという存在を、永劫回帰の軛より解き放ち、常に在るものとして存在を固定せねばならない。
 自分には、それができる。
 時間と空間を貫く重力――すなわち縁起を駆れば、回帰の環より外れた場所へ葬送できる。
 それは、涅槃であり、事象の地平であり、金輪際であり、特異点であり、無憂樹と沙羅双樹の狭間にあるもののすべて。
 それを成すための、一連の動作。
『――すべてさびしさと悲傷とを焚いて ひとは透明な軌道をすすむ――』
 神統器(レガリア)〈終末の咆哮(ワールドイーター)〉の存在に占める時間と空間のうち、空間軸の幅だけを無限大に拡張する。
 ほんの一瞬の時間の中に占める、紅き戦鎌の存在密度を際限なく上げてゆく。

 お前はマジで何を言っているんだ? ぜんぜんわからん。なんだ、必殺技でなければならないのである。必殺能力でも必殺戦法でもいけない。必殺技なのである。必殺技を必殺技たらしめるものとは何か。あのー、鍛錬の果てに後天的に行使できるようになる、というのがひとつの基準である。生得能力であるとか、何かのきっかけで降ってわいた能力であってはならないのだ。あくまで肉体の駆動によって発生しうるなんかでなくてはならない。だが――具体的に肉体をどう動かせば、総十郎を涅槃に解脱させられるんだ? 我ながら何言ってんだコイツ極まりない文字列だな。たとえばジョジョの波紋とか鉄球とかは、かなりここで言う必殺技である。なんかよくわからんが呼吸だか回転だかでなんかすごいことを起こしている。ヴォルもそうゆうことをしなくてはならない。その理屈にはそれなりに説得力がなくてはならない。ぜんぜん思いつかない。ううううう。宇宙ノ颶は、なんか「高次元振動」のひとことでお茶を濁しているが、俺もこれに倣うべきなのだろうか。だが、もう少し考えたい。もうちょっと何かバリエーションはないか。つまり、「こういう運動ならば超常的な現象を起こしても説得力があるな」というような動きの脳内ストックが足りないのである。

 

 時間切れ。

 

(ところで『スティールボールラン』の「黄金の回転」って『上弦の月を喰べる獅子』において神秘的な力を宿すとされた対数螺旋の一種なんだよなぁ。この一致は偶然か? そこには何か通底する真理があるのではないか?)