螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

とはいえととのい状態は一時間強ぐらいしか持たないのだ

 NOTEのルビ振り作業に明け暮れた結果、中指でマウスホイールを酷使しまくり、中指だけ腱鞘炎みたいなことになってしまった。満足にファックサインもできやしねえ。明日からどうやって社会生活を営めばいいんだ。出勤した時まずファックサインしないとか社会人失格ですよマジで。それはそれとしてルビ振り作業が快感すぎる。なんということか。単純作業で、成果が実に俺好みに美しく目の前に立ち現れるので楽し過ぎる。正直他人のnoteのルビ振り作業もしたいまである。あー、今日はサウナをキメた。そしてととのうという感覚の正体? というかなんというか、感度3000倍になって血流がもう快感になってるような感覚ですわ。なんだ、存在しているだけで気分がいいみたいな。これは間違いなく心因性の物ではなく、なんらかの神経を自然にはあり得ない状況でハックした結果得られる快感であろう。ととのった状態で帰宅して寝っ転がって視聴する『ムービング・アート』はマジで麻薬の類。そのうち規制されると思う。あと三半規管も何らかの変調をきたすようで、外気浴中に、あのー、ぐるぐる回転して目を回したような、静止しているのにどんどん傾いていくような感覚があったが、決して不快ではないのだ。

 

 時間切れ。

 

(まぁ少なくとも休日の昼下がりを酒飲んで過ごすよりは健康に良かろうよ)

わっかんね

 あー、ケイネス先生の聖杯戦争、第八局面をアレする。ここで問題となるのが、蒼崎燈子氏にこのような魔術礼装を作る力はあるのか否かという問題である。魔眼殺しの眼鏡を制作した実績はあるので、ディルムッドのホクロの魔力を遮断する装具自体は問題なく作れると思う。そこではなく、ディルムッドと一緒に霊体化できる装備品などというものを制作できるのかという問題だ。それはつまり、「物質の霊体化」であり、あのー、アタシ良く知らないんだけどさ、第三魔法と真逆の行いじゃないですか要するに。そう考えるとだいぶとんでもないことをしているような気はするんですな。いかに最高峰の魔術師といえど、そんなことできていいのか? いやまぁそもそも『空の境界』読んだのだいぶ昔で内容はほぼうろ覚え(というかよく理解してない)なので、なんとも言えないのだが。ただ、黒鍵とかが、「魔力の物質化」をわりと気軽に行っているので、なんかもうそのへんはゆるくていいんじゃないスかね? という気分にもなっている。まぁそれはそうと、今回のホクロの活用法はなかなか我ながら良かったのではないかと思う。使い魔大量生産の原理的理由づけにかなり説得力を付与できたのではなかろうか。まぁ、

 

 時間切れ。

 

(そもそもこれって使い魔の作成というか、死霊術なんじゃねえの? みたいな疑問はある。この二つの違いってなんなんだろう?)

梵我一如

f:id:beal:20210915231302p:plain

 だからまぁ、つまり、なんか塞がれただけでその向こうは認識できなくなるという視覚の欠点をディスる感じの方向で、なんかどうにかできないかという感じの話である。これを、人生における迷いと不明の根源であるというような方向に話を持っていくことはできまいか。つまり、視座を特定の一点のみに固定するということそのものの脆弱性というか。螺導の世界観はそうではなく、世界そのものが視座であり、視座は遍在しており、「特定の座標に存在する視点」などという概念はなく、世界自体をそのものとして感得しているというような、なんかそんなん。アートマンブラフマンの合一とでも言えばよいのか。当然、深淵接続者としての認識は、視覚に囚われた狼淵とは異なり、より高次のものになっている。それは、なんだ。アートマンブラフマンを区別すると言うこと自体の否定であるのか。本当はブラフマンしか存在していないということに螺導は気づいているのか。つまり精神的には奴はすでに深淵と等しいものとなっているのか。こうなるともっと不二一元論に対する解像度をもっと高めたい気持ちが出てくる。なんかまた資料本を買わねばならんか。そして過去編は今後どのような展開を辿るべきか。もちろん螺導にも

 

 時間切れ。

 

(少年時代はアートマンに囚われていたはずであり、それゆえに友達もいた。しかしその大切な友達が失われ、その結果としてブラフマンを認識するに至るのか。しかしてその友達は、人間ではないほうがいいような気はしている)

難しいでゲス

 『視界良好 先天性全盲の私が生活している世界』を読了する。まず、「あくまでこの人の場合は」という但し書きがつくものの、絵を描くという行いが非常に苦手であるというのが印象的であった。つまり、生まれつき目の見えない人間は、物体の細かな形や質感を触覚で把握することになり、三次元的に理解できる。ところが、その三次元的理解を二次元の紙に落とし込む際に、何らかのエラーが発生するようなのだ。基本的に絵とは、ある角度から見た物体の一側面のみを描くものであるが、生まれつき目の見えない人は「ある角度から見えない部分は絵に描かない」ということを最初は理解できず、理解したときには大層な衝撃を受けるそうな。めちゃくちゃおもろいなその話。なんか、紙から切り出す前のペーパークラフトのような感じで三次元物体を認識しているのだろうか。一方で、文字は大きな問題なく書くことができるようである。つまり、二次元→二次元のコンバートは特に問題ないと言うことだろう。さてこの情報を螺導のなんかに生かせるであろうか。……どうなんだ? つまり螺導は、物体を二次元展開図のように捉えているということなのだろうか? それが戦いにどう影響する?

 

 時間切れ。

 

(しかしそれは、表面のディテールしか認識できないと言うことである。戦いに有利になるとは思えない。もちろんそれは触覚のみの認識の話であり、実際には耳と鼻も動員されるわけであるが……)

気がするだけだ!!!!!!!

 『「感情」から書く脚本術』、読了する。あのー、なんだ、「読者に積極的に物語に参加させる」ということの重要性について語られていた。つまり、「2+3=5」という式があったとして、もちろんこれは非常にわかりやすく、誤解の余地など微塵もない表現であるが、しかしこの式を見た人間は「うん、正しいね」ぐらいしか思うところはないのである。これがダメな脚本。一方で「2+X=5」という式が出された場合、読んだ人間はほんの一瞬とはいえ思考する。積極的にXに入る数字を究明しようとする。この積極性こそが重要なのだと。ゆえにわかりやすく記述するだけではダメなのだと。なるほどなぁ……と納得する反面、俺は「2+X=5」を見たら、「はぁ、2+X=5ですなぁ」とアホ面を晒して見ているだけの人間なんですよ。書かれていることしか理解しない。言外に仄めかされることを読解する能力がマジでクソ雑魚すぎる。それゆえに式の複雑さ、精緻さ、美しさで勝負しようとしてきたわけであるが、これは世間のニーズとずれているのかも知れない。俺にとって物語とは参加するものではなく傍観するものであった。だがこれは理を外しているのかもしれない。

 

 時間切れ。

 

(何か重要な気付きを得ようとしているような気がする)

じゃあ例えばダイにしか砕けない存在にしたとして、それで面白くなるかと言われると・・・

 あー、『ダイの大冒険』、ノヴァがイキり散らして返り討ちに合うの巻。あのー、いいところのないかませ犬のノヴァ氏であるが、地味にのちの展開において「闘気の宿る剣はオリハルコンを破壊できる」という実例の最初の一回であり、同時に超魔ハドラーの最後の奥義の伏線としても機能しているという、地味に重要なポジションだったりする。なんだかんだ言ってオリハルコンを斬れるというのは勇者を名乗ってもおかしくない偉業ではあると思うんですよね。っていうかね、あのー、正直言っていいですか、『ダイの大冒険』、終盤にオリハルコン砕けすぎやろ!!!! っていうのが正直あるんですよね。もうなんていうか砕けすぎてて「オリハルコンが登場する=砕ける前振り」みたいな公式が出来ちゃってるもん。砕けないオリハルコンとか登場しなかったんじゃねえかなと思う。最強の武具素材だというのになんという体たらくか。あまりにも砕けすぎて人体の方が強靭なような錯覚すらしてしまうのである。その罪深き最初の一例がノヴァ氏であり、「ノヴァにできるんだったら他の奴らは余裕で砕けるよね」みたいな方向でインフレが進んでしまったのが最大の原因か。砕けるなとは言わんがさすがに砕けすぎである。

 

 時間切れ。

 

(いやまぁ、これは総オリハルコン製の親衛騎団が登場してしまった時点で避けられなし流れではあったかもしれんが)