過去の文章、発掘更新その……なんだっけ?
嘉永七年、横浜。
桟橋から海を見る、二つの影があった。
「以前に彼らが来たときも、俺はあの巨体を拝んでいたものだが、そのときからずっと思っていたことがある」
そう言うと、赤根一水は腰に刷いた刀と、背中のゲベール銃を確かめた。潮風を浴びながら、沖に浮かぶ巨影を見据えている。その数、八つ。
「一度……黒船(アレ)と戦(や)ってみたかった……」
――黒船。
圧倒的な、異質と威力の塊。
「以前は踏み切れなかった。そんなことをして何になる、という考えに逃げて、奥底に眠る衝動から目をそらしていた」
太い笑みを浮かべる。
「だが、俺は武士だ。人殺しを生業とする者だ。己の生存よりも敵手の死を優先させる狂(たぶ)れ者だ。武士道とはこれすなわち死狂うことに他ならぬ。史上最も巨大で堅牢で異質なる敵手を前にして、昂ぶりを覚えない者は、もはや武士ではない」
声も、太い。
眼も、鼻も、唇も太い。
すべての部位に釣り合いが取れていて、何かの表情を浮かべると、えもいわれぬ愛嬌が出る。自然と人を惹きつける男だった。
しかし、言っていることは無茶苦茶だった。戦国時代の荒武者ですら、もうすこし大人しかったのではないか。
そう思いながら、鬼芝喜助はため息をつく。
「無茶言いやがる。そんなことができると本気で思ってんのか」
「よし、あの一番デカいやつを狙おう」
「聞けよっ」
「なんだ、嫌なのか」
「嫌に決まってんだろ! 阿呆か! あの船に何人詰めてると思ってんだ!」
「……三万人くらい?」
なんでこの男はこう無意味に大きな数字を使いたがるのか。
「……三百人だよ馬鹿野郎! そんなに入るわけないだろ! 明らかに!」
「なんだ、楽勝ではないか」
「本気で言ってるんだとしたらあんたの頭はおかしい」
三百人。
すべてが武装しているわけではないにしろ、おおよそ尋常な数ではない。
百人斬りですら伝説として永遠に語り継がれるだろうに、そのさらに三倍。
眩暈がしてくる。
「案ずるな、二百は俺が引き受ける。喜助、お前は百人だけやればいいぞ」
ははぁ、算術がきちんとできて偉いですねぇ。
●
結局、鬼芝喜助は浜辺までついてきてしまった。
もちろん一緒に乗り込むつもりなどない。この壮絶きわまるうつけ者の最期を、離れたところから見物してやる肚だ。
「船も何もないじゃないか。どうやって乗り込むつもりだ?」
「なに、こうするのさ」
ひょい、と。
唐突な浮遊感。気が付くと、一水の大きな背中におぶさっていた。
「おわっ!?」
「しっかりつかまってろ」
瞬間――すぐ背後の砂浜が爆発した。
そう思えたのは、一水の強烈極まる踏み込みが砂を吹き飛ばしたためだ。凄まじい加速が喜助の全身を軋ませる。一水の肩越しに見える前方が、黒船艦隊を中心に放射線状に掻き消えた。明らかに海の上まで跳んできてしまっている。
張り上げた悲鳴が自分で聞こえなくなるほどの、空気の唸り。そして落下。
ばん! と鬼の掌が柔らかいものを叩いたかのような音が轟き渡った。
つづいて、背後で爆音が連続する。
まさか――
とんでもない想像を抱きつつ後ろを振り返ると、海面から巨大な水柱が次々と吹き上がっていた。
――まさかまさか、黒船からの砲撃か!
しかし、その予想すら覆される。砲撃にしてはあまりに規則的で、連続的すぎる。
真相に気づいたとき、喜助の顔に浮かんだのは、疲れた笑みだけであった。
――この男、水の上を走ってる……
阿呆か、と思った。
人間じゃない、とも思った。
狂っちまった、と、これは自嘲。
徳川の御庭番の中には水の上を歩く者もいたと聞くが、それにしたってこれは……
「噴ぬッ!」
一水は一際強く水面を蹴ると、天まで届かんばかりの水柱をあげながら、上空に舞い上がった。
もう、自分が悲鳴をあげているのかどうかもわからなくなっていた。
そして――
バキベキベキボキバキィッ!
着地。
いや、着艦?
なんにせよ甲板や船床を突き破り、内部に侵入を果たした。
あたりは薄暗い船倉だ。
「って、阿呆がぁッ!」
しばらく目を回していた喜助は、意識を取り戻すなり吼えた。力の限り吼えた。
見ると、一水は床に下半身が埋まった状態だ。
「なんだ、喜助、どこか打ったか」
「ちげえよ! なんで俺まで連れてくるんだよッ! こ、殺されるッ! バテレン妖術の供物にされちまう……!」
「落ち着け。そんな偏見に凝り固まっているようでは、これからの国際化社会を生き残れんぞ」
「攘夷論者の台詞かッ!」
「いや、攘夷とか正直どうでもいいし」
「何ィィッ!?」
「フリィィィィズ!」
唐突に、怒鳴られた。
「あ……」
なんか襟が異様に大きい珍妙な格好をした集団に取り囲まれていた。
もしかしなくてもメリケンの水兵たちだ。よくわからないが凄そうな銃を何丁もこっちに向けている。
「もうおしまいだぁ……」
喜助は頭を抱えてしゃがみこんだ。
すると、水兵の間から黒い衣服を着た偉そうな金髪が進み出てきた。
「ヘーイ、チョンマゲ・ガーイズ! ハゥディドユーエンタァ?(訳・やぁ、ちょんまげ男たち。どうやって入ってきましたか?)」
なんか言ってる。
「おーぅ、そーりーそーりー。うぃーあー通りすがり・単なる」
「適当ぬかすなよッ! 怒らせたらどうすんだよッ!」
喜助はもう半泣きだった。
「知らんのか? メリケン語は後ろから読むのだぞ」
「そゆこと言ってんじゃねえ!」
「イットダズントアンダスタンウェル……イットキャプチャァズ イットフォアザタイムビィングスロゥ!(訳・よくわかりませんが、とりあえず捕まえます)」
小銃の先をこっちに向けたまま、何人かの水兵がにじり寄ってくる。
しかし一水は、不敵に笑むばかり。
水兵たちはさらに歩みを進めてくる。
すると一水は、
「おっと、いいのかな? 俺をここから引っ張り出すと、船が沈むぞ?」
太い声でそうのたまうと、床に埋まった体を少しひねった。
ぷしゅー!
身をよじることでできたわずかな隙間から、海水が勢いよく吹き出す。
言葉が通じなくとも、さすがに伝わったようだ。
「ノォォォォゥ!(訳・やめてください)」
後ろの偉そうな黒服も、眼の色を変えている。あたりは騒然としだした。
「クックックッ、動揺しているなメリケン人! さぁ大人しく武器を床に置け!」
身振りも交えながらそう伝える。
「オゥ、マイガッ!(訳・おぉ、神よ)」
「シット!(訳・排泄物)」
「サノバビッチ!(訳・娼婦の息子)」
口々に何やら吐き捨てながら、水兵たちは武器を手放した。頼んでもいないのに両手を頭の上に乗せている。
喜助は口を開けたまま、そのさまを呆然と眺めていた。