螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

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過去の文章、発掘更新 音楽描写(?)編

 《覚者》の奏説が聴けるというので、アユダは色界第二禅層の外周へと足を運んでいた。
 右手には広い湖があって、蓮の花が点々と咲いていた。涼しい風に乗って、爽やかで甘い香りが運ばれてくる。
 すぐそばで、いとけない鼻歌がする。
 彼の手には、より一層小さな手が握られていた。幼い妹が、一緒に行くと言って聞かなかったのだ。
 留守番から開放されて上機嫌なのか、彼女は飛び跳ねながら拙い旋律を口ずさんでいる。
 アユダは目を細め、たくさんの旅人が踏み固めて作られた小径を、ゆったりと歩いた。妹のランシャは、いまだ己の魂に刻まれた情報――前世や前々世の記憶――を取り戻せていないため、その仕草言動は肉体の年齢そのままである。あと二、三年もすれば元の聡明で怜悧な人格を取り戻すことだろう。それを少しだけ残念だと思ってしまうあたり、自分はまだまだ第三禅層には昇れないな、とアユダは思う。
「にいさまにいさま、《覚者》ってどんなひと?」
 鈴の音のような声で笑いながら、妹はそんなことを聞いてくる。
「私たちよりも上の階層に昇られた方々のことだよ、ランシャ。私たちは、自分の魂を、肉体を通じて外界に表現できるようになるまで、幾度も生まれ変わりを繰り返す存在だけど、《覚者》さまはその過程を終えられた方々なんだ。いわば、我々の先輩筋だね」
「ふーん、じゃあどうしてまだここにいるの?」
「一度は上の階層に迎え入れられたのだけど、自らさらに高みを目指すよりも、後続の後輩たちがより早く昇ってこられるように、下界に降りて教えを説いてくださっているんだ」
 色界の太陽は、淡く優しい光を投げかけてくる。点在する菩提樹の葉が、そこかしこでまだら模様の木陰をつくっていた。
「さぁ、見えてきたよ」
 道の先で、ひときわ大きな菩提樹が、空を覆い尽くさんばかりに枝葉を広げている。
 そのふもとには、小さな伽藍があった。
 象や仏の刻まれた石の階段、その中ほどに、円形の人だかりができている。
「《覚者》ヴァーユ様だ」
 人だかりの中央には、一人の男が結枷跋坐を組んで目を閉じていた。少なくともアユダの眼には、それが男に見えた。肉体の年齢は三十を少し回った程度だろうか。頬はややこけ、目元には険しい皺がある。豊かな白髪は凍った滝のようだ。
 もっとも、《覚者》の外見はまったく当てにならない。見る人間によって、さまざまな形をとるのだ。ほかの人の目には、人の姿にすら見えないかもしれない。
「ランシャ、どんな人に見える?」小声で聞いてみる。
「ん、わたしとおなじくらいのおとこのこ」兄と何事かの秘密を共有することがうれしいのか、弾んだ声でそう答えてきた。
 しばらく《覚者》は目を閉じていたが、やがて人だかりのざわめきが自然に収まると、おもむろに目を見開き、膝元に置いてあった楽器を手に取る。須弥海に棲む巨大な甲殻生物の殻を使った、螺旋状の弦楽器である。アユダはこのような不思議なものを見たことはなかった。
「色界の方々よ、私は今日ここで奏でましょう。須弥山の遥か頂き、宇宙の中心に渦巻く極微にして無量の混交を。その断片を」
 空気が、その瞬間に張り詰めた。誰からともなく、その場に次々と腰を下ろし始める。
 それを見届けぬうちに、《覚者》は長く鋭く伸びた爪で弦を弾いた。
 彼の観た何事かを爪に宿し、それを空気の震えとして、色界に伝えた。
 色界の理では、本来発振しえないその音色を。


《それは、恐怖の滲み出る楽曲》《低く、重く、深い主旋律――根底に流れるそれ》《広すぎる/暗すぎる宇宙=本能的な恐怖》
《そこから抜け出そうともがくかのように、高く弱弱しい律動》
《か細い対旋律/重低音が紡ぎだす無限の闇の中で戸惑い迷う》


 アユダは、妹が自分の腕にすがりついてくるのに気づいていたが、彼女をあやしてやる余裕はなくなっていた。
 何かがおかしい。
 これではまるで――


《凶悪にうねる主旋律》《爆音のような頂=虚無にも似た底辺》
《のびやかで暗い旋律が加わる/それは悲しみを詠う》
《擦過音》《不快な雑音=宇宙にちらつく何か》


 ざわざわと、他の人々も異変に気づきはじめる。
 それらを圧して響き渡る、不吉な音律。
 《覚者》とは、色界での永い修行の末に、須弥山のより上の階層へ至る径を探り当てた者たちのことである。色界の住民より遥かに高次の認識力、思考力をもって宇宙の構造を観る者たちのことである。
 ――その《覚者》が、魔妖のごとき旋律を奏でている。


《頻度を増す擦過音/死斑のように領域を広げてゆく》
《なお巨大にうねる主旋律》
《相容れぬ音質同士の混交=衝突=火花》《その狭間で圧殺される対旋律》
《広がる悲しみ/破壊的な衝突音は意に介さない》
《閃く火花/広がりゆく擦過音/なお強力にうねる主旋律=しかし所々に綻び》
《破綻の予感》
《飽くなき増殖=擦過音/虚無》《爆音/爆音/爆音=戦火》


「やめて……」
 ランシャのか細い声が、かすかに震える。


《鋼鉄の匂い/電離の炎/悲鳴の渦/絶叫の海》
《鬨の声/広がる悲しみ/鬨の声》《焦げた匂い=建物/草木/人》《如来の起動音》《穏やかな瞳に機械の光》《内部には人間=覚りし者》《広がる悲しみ》


「やめて!」
 なお楽曲は止まらない。しかし、アユダにはその調べの意味がつかみとれない。圧倒的な音の洪水に押し流されるばかり。ただ、深い悲しみが胸に広がる。
「わかったから、もうわかったから! これ以上ここの人たちにソレを聴かせないで!」
 ランシャの叫び。明らかに、明晰な知性が込もっている声。
「ランシャ……? 君は、まさか……」
 演奏が止まる。《覚者》ヴァーユはこっちを見ている。
「ようやく観念したか。《覚者》ランシャよ」
 冷厳なる声と瞳。
 ランシャはうつむいている。アユダの袖を握る手が震えている。
 意を決したようにアユダの方を向くと、抱きついてきた。
 アユダはしっかりと抱きとめる。
「ランシャ……すでに目覚めていたんだね。どうして今まで黙っていたんだい?」
「ごめんなさい兄様。もう少しだけ、この優しい世界に留まっていたかった」
 足音。ヴァーユの歩み。
「征くぞ、《覚者》ランシャよ。すでに最終防衛線にまで戦火は至っている」
「……はい」
 ヴァーユはランシャを従えて、歩み出す。
 どこか、遠く、高く、悲しい所へ。
「ランシャ!」
 たまらず、アユダは声をかける。
「晩御飯までには戻ってくるんだよ?」
 ランシャは振り返り、笑みを浮かべる。目の端から、透明な雫がこぼれる。
「はい。少し遅くなりますけど、必ず……必ず!」
 そう言い残し、小さな妹は、ヴァーユとともに眩い光に包まれ、次の瞬間、色界より姿を消した。