螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

過去の文章、発掘更新〜たまには手抜きしないとつづかねえ〜

 眼球がとても綺麗だということに気づいたのは、うんと小さいころだった。
 それまで、ほとんど世界に絶望し、加害をもってしか他者と接することができなかった彼にとって、それは世界の変革に他ならなかった。血と愛と肉と哀しみと髄液にまみれて途方に暮れる中、ただリノリウムに転がる眼球だけが、泣きたくなるほど優しく鮮烈で――
 ――眼球は、綺麗だった。
 ――彼は綺麗なものが好きだった。
 ――そして、人間には皆、眼球がついていた。
 この巨大な世界の中でただひとつ。この腐った世界の中でただひとつ。
 己の命のテーマと据えるに足る『美』。
 それを発見した彼は、美しさを尊いと思うがゆえに、涙を支払い、『やさしさ』を手に入れた。
 願わくば。
 もう二度と、哀しい別れが襲い掛かってこないよう。


 ●


 黒澱(くろおり)早百合(さゆり)は下校途中、いつものように夕陽を見上げながら歩みを進めていた。
 決して前を向かず、上だけを見て帰宅することは、彼女に課せられた神聖な義務である。
 何故なら、彼女の視線は《黄昏熾示録》が引き起こす八千四百二十七の回帰事象を即座にキャンセルさせることができるためだ。
 尋常で退屈なこの世界を護るため、早百合は夕闇迫るこの時刻には必ず空を見上げることにしていた。
 さもなくば、アナザーエンブリオは球殻状に歪み、遺世子は思い出してはならないことを思い出してしまう。もはや二つの朔月の世界からもたらされる破滅を食い止めるすべはない。
 だが、いつまでこれをつづければいいのか――
 彼女の務めは不毛だった。
 夕陽は、今日も紅い。いっそ禍々しいまでに。
 《黄昏熾示録》の侵食に悲鳴を上げる世界の、それは血涙であった。
「おわっ」
 と、脚に何かが当たった。
 脚にぶつかった何かは体制を崩したらしく、ペチ、とアスファルトに手を突く音がした。
 視線を下に向けて確認したいという欲求と、アナザーエンブリオへの義務感が拮抗し、一瞬だけ早百合に判断を躊躇させる。
 視界を、黒い塊が覆った。
 早百合はいまだ空を見上げたままだというのに、その影は視界の大半を占拠している。つまりは、立ち上がった人物が早百合より圧倒的に背が高かったということなのだが――その姿を見て、比喩でも誇張でもなく生まれて初めて戦慄した。
 合っているのだ。
 周囲の景色と。
 まるで一枚の絵画のように。
 紅い斜陽のもたらす夕闇が、解けて溶けて滲んで混ざって、人の形に結晶したかのような姿だった。
 全体は闇色。部分は漆黒。
 極端な長身痩躯。
 柳のようにさらさらと蠢く黒髪が足首まで伸びている。
 衣服も黒。前腕や、膝や、背中や、衣服の裾から、幅広の羽根が並んで突き出ている。
 それは鴉の羽根であった。長大なそれらが全体のシルエットを鋭角的に整え、まるで多数の関節を持っているかのように錯覚させる。
 血のように紅い黄昏の世界で、その者は己の魔性を如何なく発揮していた。
 風が、吹く。
 陰惨な匂いを孕む魔風が。
 黒い黒い、どこまでも無限に黒いシルエットの中で、唯一透くように白いその顔が、にゅい、と笑った。
「何を見てるの?」
 予想以上に屈託のない、聞きようによっては幼いとすら感じられるその声に、早百合は答えた。
「わたしは見ているのではありません。わたしは《黄昏熾示録》が引き起こす八千四百二十七の回帰事象を視線で打ち消しているのです」
「あぁ、なるほど」
 彼は思慮深げに――致命的に似合っていなかったが――うなずくと、優美なラインを描く顎に手を当て、
「キミは人知れず世界を救っているんだね」
 そう言った。
 思わず、まじまじと相手の顔を見た。
 自分の発言を聞いて普通に返してきたのは、彼が初めてだ。他の人間は全員、妙な顔をするか、曖昧な笑みを浮かべて去ってゆくだけだというのに。
「……結果としては、そうなっています」
 だから、この男にわずかばかりの興味が湧いた。
 彼の足元を見る。
 猫の屍骸が、横たわっていた。
 煤と埃と、自らの血に塗れて、腹からは腸をはみ出させている。
 ――車に轢かれたのだろうか。
「おまえは何をしていましたか」
「えっ、僕?」
 彼は一瞬目を見開き、困ったように笑った。
「まぁ、その、眼球……っていうか……あ、いやいや!」
 そして、慌た様子で両手を背後に回す。
「なんか、こう、眼球、のようなものを、ちょっと、アレしてナニというか……」
 早百合は、こてん、と首を傾ける。
「……いや、えぐってないよ? ないよ? ホントだよ?」
「おまえは何の眼球をえぐりましたか」
「いや、いやいやいや! えぐってはいないんだ。ただ、猫さんの死体を見つけたから少し、」
「おまえはえぐりましたか」
「……ゴメンナサイ」
 黒髪を滑らかに揺らしながら、彼は頭を下げた。
 膝に乗せられている両手の、ゆるく握られた指と指の間から、ちょろりとピンク色の細長い何かが垂れ下がっていた。
 ――視神経だ。
 ――この人は、事故にあった野良猫の死体から、眼球をえぐり取ったんだ。
 事実をそう認識した瞬間、音を立てんばかりの勢いで、早百合の胸が縮み上がった。心臓が痙攣したかのように鼓動を繰り返すのに、思うように血を送り出すことができない――そんな苦しくももどかしい感覚。
 体中が熱を持ち始めている。それらが頬に集まり、火が灯ったかのような熱さを感じさせる。
 顔が真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
 あぁ――なんて。
 なんて寂しい人なんだろう。






 いつかつづく。
(意訳:つづかない)