螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

男が最後に行き着く場所

 そろそろテューン・フェルベルについて語らねばなるまい。
 あるいは武田赤音とリンゴォ・ロードアゲインについても。
 そして、男と言う生き物を本当に救済しうる価値とは何か、という思索についても。



 上で挙げた三人は、まぁなんというか、とんでもないロクデナシなのです。倫理的に考えて、どう考えてももやっちゃいかんようなことを躊躇いもなくやっちゃう系男子なのです。
 彼らの往く所、必ず悲劇惨劇が巻き起こると言ってもよいほどに。
 別段悪意があったわけではなく、自らの目的のために必要なことを行っていただけなのですが――とかく目的意識が強すぎて、倫理観はもちろん、愛とか絆とかいったものも平気で踏み躙る。
 では、彼らは狂人なのか。生育環境に問題があって、心が歪んでいるのか。なにかしらそういう原因があるのか。
 ないのである。
 彼らは三人とも、ごくまっとうな人格者の親から十分な愛情を受けとって成長した。
 テューン・フェルベルとリンゴォ・ロードアゲインに関しては、少年時代の最後に惨劇が待っているのであるが、その惨劇を引き起こした人物に対して、復讐心ではなくもっと前向きで真っすぐな気持ちを抱き、その後の行動原理の根幹を成すほどの影響を受けるのである。
 武田赤音に至ってはさらに極端で、生まれてから死ぬまで本当にまったくなにひとつ辛い目に遭っていない。
 重要なのは、彼らが満たされていた、という点だ。
 大切な何かを奪い取られ、欠乏を抱え、それを満たすために凶行に及ぶ――というだけの人物なら、まぁ、ほかにいくらでもいる。容易く共感もできるだろう。しかし、そういう連中は、言ってしまえば「運が悪かっただけの普通の人」である。
 彼らは違った。自身が被害者ヅラを一度たりともしなかったのはもちろんだが、物語としても彼らは「悲劇の男」としては描かれなかった。
 彼らは欲しいものがあって行動を起こすが、別段、それが得られなかったからと言って困るということはまったくないのである。平穏に無害に生きていくことだって、やろうと思えば余裕で出来たのだ。
 だが、彼らはやった。そしてやり遂げた。
 ここに、「生きものとして」ではなく、「人間として」でもなく、「男として」、本当に目指すべき生き方の、ひとつの極北があるのではないのかと思うのだ。
 ――いつものようにつづくッッ!!


 本日の執筆記録:二十八行。