くらやみのなかにつなぎとめる
どれだけの月日が流れたのだろう。
時間の感覚は、とっくにない。
貧民街の廃墟の一角に身を潜め、浮浪者に混じって生きる日々。
――おぉ、記念すべき最初の実験台はあなたの舎弟どもにしてみましょう。一体どんなクソカスが誕生するのでしょうか!!
ザメンホフの嬉々とした声を思い出す。
そして完成した舎弟(with胸板兄貴コピー義肢)たちは……正直なところ明らかに弱体化していた。ウォリアーとしてはもう使い物にならないレベル。動きがぎこちなく、膝や肘がガクガク震え、いつもワンテンポの遅延があった。
射と接と攻と敏が軒並み2まで落ち込んでしまったのである。
――ふぅむ、失敗ですね。この木偶はもう使い物になりません。破棄です。
そうしてザメンホフは、十人を工房からぞんざいに追い出したのだった。
もちろん、胸板兄貴に新しい義肢を付けてやるような慈悲の心などあるはずもなかった。
最初の一カ月は何も感じなかった。
自らの体に起こったことがあまりに現実離れしすぎていて、いやこれ夢だろ? マジマジ俺よく見るよこういう夢、なんか体感で一カ月ぐらいある悪夢っつーんですか? 明晰夢っつーんですか? なんかそんな感じのアレだろ? ハッハッハわかってんだよバーカみたいな感じでぜんぜん危機感も何も覚えてはいなかった。
次の一カ月で絶望して自殺しようと思ったけど手足がなくて目ん玉もなかったらなんもできねえよバカ! どうすんだよこれ! マジどうすんだよ! 俺完全にお荷物じゃん!! 舎弟に守られて舎弟に飯食わせてもらって舎弟にシモの世話
あかん。
マジ。
これきついわ。
「あ、兄貴、やっぱり親分のところに戻りましょうよ……」
「うるせえ。お前らだけ帰れよ。俺のことはほっといてくれ」
「いや、だけど……」
「だからオムツ穿かせようとすんなすんなっつってんだろ! クソがッ!」
ひっくりかえった芋虫のように、無様に跳ね転がる。
無論、帰れるわけがなかった。こんなナリで、どの面下げて帰れというのか。あいつらの慈悲にすがって生きて行けというのか。
「てめえら……俺のことを少しでも哀れだと思うんなら、今すぐ決断してくれ。それが慈悲だ」
「で、できません……」
「殺せっつってんだよ! 頭脳がマヌケか!」
「できません!」
「クソ野郎どもがァ……あーあ! おめーらはいいよなぁ! 俺のお下がりの手足付けてもらったしなぁ!!」
「……ッ」
舎弟たちが、身を縮こまらせる気配。
視覚を失ってからこっち、かすかな振動や、音、空気の変化などに対する感覚が、やたらと鋭敏になっていた。
涙を堪え、歯を噛み締める筋肉の収縮までもが、薄ぼんやりと理解できる。
そうして、自分がどれだけ卑小な人間になったのかも。
体が、震える。臓腑に不快な悪寒が走る。
惨めだった。あまりにも。
「……すまねえ。お前らだって苦労してんのにな……」
ようやく搾り出したその声は、自分でも笑えるほど力がなかった。
こうやって舎弟たちを気遣う余裕がなくなるのも、時間の問題であろう。
「う……うぅ……」
弱弱しい啜り泣きの声を聞きながら、胸板兄貴は一つの決断を下していた。
――どの道。
このままウダウダしていたところで、ヘリオンのギャング団にでも狩り立てられるのがオチである。
そしてそのとき、何がどう転ぼうとも自分は舎弟たちにとってお荷物以外の何にもなりようがないのだ。
――そうとも。どの道スラーネッシュの慰み者になる運命が確定してんのなら。
バッドエンドのフラグがもう立ってしまったのなら。
せめて最期は、一人で生き、一人で死ぬべきなのだ。
襤褸をひっかぶって眠っている舎弟たちに、感謝と詫びの手紙を残し。
胸板兄貴は、一人廃墟を這い出た。
下コモラフの淀んだ風が、無力なこの身に吹き付ける。
冷たく硬い地面に擦れて、衣服はあっという間に使えなくなるだろう。
そうして数日と経たずに、他の誰かにとっ捕まって拷問されて殺されることだろう。
だがそれでいい。
――俺が死ぬのは、俺自身の判断ミスが原因でなきゃならねえ。
舎弟たちに、余計なものをおっかぶせたくはないのだ。あいつらを、自由にするのだ。
胸板兄貴は、まったき暗闇の中で、青白い月光を感じていた。
からっぽの眼窩ではなく、全身で、心身を清澄に洗い流してゆくような、冷たく爽やかな光を感じていた。
そもそも惑星ですらないコモラフに、月の光など差し込む筈はない。であるならばそれは、すべての生命が持つ、根源的な意識の機能であったのかもしれない。
果て無き闇の荒野の中で、心を決めた者だけが感じ取れる、「真実のとき」と呼ばれる瞬間。
あるいはそれは、胸板兄貴という自己認識の、最期の輝きだったのかもしれない。
一年後。
下コモラフの貧民街で、とある凶暴なUMAの噂が広がっていた。
曰く、普段は腐肉や残飯を漁っているが、たまに襲い掛かってくることもあるらしい。
曰く、異常に素早く、現れた瞬間には犠牲者の喉が食い破られ、姿をはっきり視認できないうちに下水道や排気口に逃げ込んでしまうらしい。
曰く、ダークエルダーはもちろん、他のいかなる種族からもかけ離れた、奇怪な輪郭をしているらしい。
とはいえ、それほど気にかけられていたわけでもない。わけのわからない怪生物が街路の狭間に息を潜めているのは、コモラフ的にはいつものことである。そのうち誰かに討伐されるか、餓えて死んでいるか、あるいはそもそもそんなUMAなど実在せず、奇妙な殺人が重なったために居もしない怪物の存在が妄想されただけであろう――と。
だが。
それは実在した。
単なる噂ではなく、非物質的存在ですらなく、確固たる生物として存在していた。
それは餓えていた。
それは渇いていた。
それは怒りに身を焦がしていた。
もはや自分がなぜ怒っているのかすらわからず、ただ盲目的な衝動に身を任せ、近づくものすべてに襲い掛かっていた。
そぎ落としてしまえば、驚くほど身軽に動けた。
腹筋や背筋の作用で爆発的な跳躍・旋転を行い、口にくわえたナイフで獲物の急所を切り裂いてゆく。
視覚などという不完全な感覚に頼らずとも、全周囲の状況を即座に把握できるようになっていた。
無為にして、無想。
されど意識は伴わず。
仕留めた異種族の、糞臭い臓腑を貪りながら、ふと月の光を感じる。
――かつては。
心を繋いだ仲間たちがいたような気がした。もはや名前も忘れてしまったけれど。
今となってはどうでもいいことだ。
生暖かい胸郭に頭を突っ込み、とりわけ滋養に富んだ心臓を食い千切ると、素早く排水溝に飛び込んで身を隠した。
これで、一週間は食いつなげる。
そんなある日。
五人のダークエルダーが、下水道における彼の寝床付近を調べまわっているのを感知した。
どうせ仮のヤサである。見つかりそうならば引っ越してしまっても一向に構わないのだが――
たかが五人。仕留めるのに苦労はない。
崩れかけた壁面の中で息を潜め、彼は獲物が目の前を通りかかるのを待った。
――最初の跳躍で二人は仕留める。
そう思い定め、ぐっと身体を撓めた。
だが。
五人の侵入者は、彼の想定を遥かに超える武錬の持ち主であった。
物陰から飛び出し、咥えたナイフを一閃。間違いなく喉を捉えた――はずだったのだが、硬い感触とともに弾かれる。
「……むぅ! なんと!」
「我々に気取られぬ接近と強襲――なんたる天才!」
即座に唸りを上げて襲い掛かる長大な武具の名を、彼は知っているような気がしたが――全身に走る衝撃に打ちのめされ、意識を手放してしまった。
あぁ、これで終わりか――と、どこかほっとしたような心持で、彼は闇に魂を委ねた。
「おぉ、おぉ……なんと無残な! 見覚えがあるぞこの顔!」
「これほど変わり果てた姿でありながら即座に見分けを付けるとは……やはり天才……」
「なんの、最初に噂を聞きつけて捜索を提案したお主こそ大した奴だ……」
「否否、この場で天才と呼ぶべきは紛れもなく彼であろう。四肢を失った状態で、よくぞ今まで生き延びた……! 驚くべき執念! 畏怖すべき矜持! まっこと、寒気を催すほどの凄まじい天才よ!」
「うむ」
「うむ」
「して、この恐るべき超天才をいかにすべきか」
「やはり、彼もまた師範代に会わせるが吉であろう」
「そこに思い当たるとは……お主天才か……」
「いやいやお主こそ……」
なんかうぜえ。
意識を取り戻したとき、彼は恐ろしく巨大な空間のただなかに取り残されていた。
そこに身を置くだけで、居住まいを正さざるを得なくなるような、厳粛にして荘厳な霊気が周囲に満ち満ちていた。
広い空間は、見つかりやすい空間である。即座に身を隠すべし。
そう思い、全身の筋肉を動かそうとした瞬間――
彼は、十歩ほど先の位置に、一人の男が佇んでいるのを知覚した。
もはや超感覚とも言うべき心眼を身に付けた彼にすら、今の今まで察知できなかったほどの、完全なる自然体の佇まいであった。
「若者よ」
こちらの虚を突くタイミングで、男は語りかけてきた。
「君は、月の光を感じたことがあるかね?」
その声は、闇のように低く、深い。
その言葉は、乾いてひび割れた彼の魂に、清水のごとく染み入ってきた。
無明月光流鏖殺典範が筆頭師範代――ヴァラゴ・ガキュラカと、豊饒なる飢餓の世界で救済に餓えたる一匹の獣との、それが出会いであった。