螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

かの日は還らぬ。報いは欠片もなく。

しかし、その、何だ、「主体性」という言葉、これやっかいだなぁ。「認められたい」「称賛されたい」から、●●をする、という行為は、結局それが己の内から生じる欲なのか、外界から与えられるものなのか、見分けがつきづらい。

 というコメントを頂いて、考える。確かに、欲求・欲望などと書いたが、その源泉がどこにあるのか、その定義づけなど果たして可能なのであろうか。もっと言うと、本当に外界と何の関係もなく発生した「欲しい」などありうるのか、という疑問である。とりあえず俺が「欲望」に準じた生き様を見せてもらって非常に感銘を受けたと思った人物が、『刃鳴散らす』の主人公、武田赤音パイセンである。この人はなんかこう、宿敵との決着を求めるあまり、すでに自分の手の平にあったすべての美しいもの、暖かいものを躊躇なく犠牲に捧げた人物であった。ではその「決着をつけたい」は本当に「欲望」なのか。確かに身体的な「欲しい」ではなかっただろう。だが、外界から与えられた「欲しい」ではあったのではないか。かつて赤音パイセンは宿敵と非常に良好な関係を築いていた。同じ剣術道場で切磋琢磨しあう友人であり、お互いのことを非常に認めていたし尊敬していた。で、

 時間切れ。

(あらすじ語りでノルマを凌ごうという魂胆であった)