まぁ根性がないのはラスボスの設定上しょうがないが
『サピエンス全史』において、「幸福とは脳内でドーパミンだかセロトニンだかが多めに出ている状態のことを指す」みたいな身もふたもない結論が出てたりするのだが、まぁでも実際、そうだよなぁ。それしかないよなぁ、とは思う。幸福論とはいかにして脳内物質をいい感じに出すかという方法論に過ぎないと、言ってしまってよいのではなかろうか。であるならば、脳内物質事情を改善する方法論に優劣や貴賤などあるのだろうか。現実で苦しみ、葛藤の末に何かを掴み、それで幸福になるのと、怪しいお薬だかラスボスの救済だかで即幸福になるのと、いったいどのような違いがあるというのか。しかしほぼすべての物語において称揚されるのは前者であり、後者は唾棄すべきものとして扱われる。この格差に論理的な納得ができないでいる。幸福など所詮脳内物質だばーでしかないんだぜ? まぁ、なんというか、我々は現実に生きているので、今いるこの現実を肯定してほしいというニーズがあるために物語はそれに答えているという面は確かにあるだろう。しかしそれは
時間切れ。
(ただ自分を無批判に肯定してほしいという卑小な要望だ。そこに止揚はない)