螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

だから、つまり、なんなんだよ!!

  ほんでな、アンタゴニアス五十三話をアレすんねんけどな、あのー、あのさ、ジアドくぅんさぁ、君、君、その、なんだ、どうすればいいの??? ここにきて哲学的ゾンビを小説の登場人物として描写することの無理が表面化してきたような気がする。第一部のラストバトルに向けて、ジアドくぅんはジアドくぅんなりにアーカロト氏と戦う動機は持ってもらいたいわけであるが、哲学的ゾンビは動機など持ち得るのか? いや、もちろん、表面的、つまり機能的意識のレベルでは動機を持っている(ように見えるように振舞う)ことはできる。だが、現象的意識のレベルでは、もちろん虚無である。そのような存在の視点で小説を書くことは不可能であるわけだが、しかしやはりラストバトルではジアドくぅんも激熱心理描写とかさ、したいじゃないですか。ねえ? しかしジアドくぅんの力の根源は、まさに哲学的ゾンビであることに起因しているため、もしも自我やクオリアを獲得してしまったら力を失ってしまうのである。クソッ、どうすればいいんだ。どうにかして虚無のまま心理描写が描ける存在になってもらわなければならないというのに……! たとえば『ハーモニー』に登場する哲学的ゾンビは、意識を持った人間と表面上何も変わらないように見える。普通に泣き、笑い、日々の営みを行う。

 

 時間切れ。

 

(この作品では、「意識とは脳内の特定の部位に宿るものではない」としている。どれだけ脳みそを細かく刻もうと、根源的主観は発見できない。それらは複数の異なる欲求なり情動なりが喧々諤々と議論を交わす、その会議そのものが意識であるとしている。葛藤こそが意識の本質であると)