神話のガバに整合性を求めるなという話であるが、小説にする以上、我々から見ても合理性のある展開にせねばなるまいよ
フィンは、唇を噛んで見ていることしかできなかった。
ことごとく次元の違う攻防であったから。
アゴスの斬撃を、フィンは視認できない。ただ総十郎の陽炎のごとき動きから、残る最後の一振りの軌跡を事後承諾めいて推察できるだけだ。――だからこそ。フィン、お前は……お前だけは、滅びゆく良き人々のそばに寄り添え。手を握り、最期まで一人ではないのだと囁きかけられる、優しき戦士となれ。軍規や、理屈や、しがらみに囚われず、牙なき人の明日のため、最後の希望でありつづけろ。
――生きて、フィン。自分のために。責務なんてもう無意味なの。存在しないの。だから、お願い。逃げて。カイン人に戦いなんて挑んでは駄目。逃げて、逃げて、逃げ続ければ、ひょっとしたら世界のどこかに、カイン人の汚染に沈んでいない場所があるかも知れない。
二人の言葉が、優しさと哀しみが、胸で燃えている。
ちちうえと、ははうえの想いを、等しく受け継いで。
だからフィンは、片目と片腕が、熱を帯びていることに気づいた。「フィンくん」
トウマが、不思議な包容力のある眼差しでこちらを見ている。
しかしちょっと残念だったのが、本書もクーフーリンやフィアナ騎士団の逸話のすべてを網羅しているわけではないっぽいことである。いや、しょうがないと言えばしょうがないのだが、『ケイネス先生の聖杯戦争』小説化の目論見にはディルムッドの剣であるモラ・ルタとベガ・ルタがいかなる経緯でディルムッドのものとなり、どのような効果を持つ武器だったのか。それからドルイド僧アンガスのもとで育った少年時代の様子をぜひとも知りたかったのだが、そうゆう情報はなかった。というかゲイ・ジャルグは二回、ゲイ・ボウは一回しか出てこず、どちらも「魔法無効化」だの「回復阻害」だのいう効果の記述は一切なかったのである。いったいどこまでが神話に根拠のある情報で、どこからが型月関連の創作なのかがわからなくなってくるマンであった。あと、奇妙なのが聖約(ゲッシュ)の扱いである。ケルト神話のキャラクターはゲッシュなる制約を自らに課すことでパラメータに大幅なバフを盛ることができるゲームシステムになっているのだが、そしてゲッシュを破ることは死ぬよりも恐ろしい不名誉であり、そんなことをした奴はもう永遠に日の本を歩けないし社会的に死ぬ。そうゆう世界だ。だが、ディルムッドをグラニアが無理やり駆け落ちさせる際に
時間切れ。
(「わたしを妻とする」というゲッシュを思い人にかけたためにディルムっさんの人生はオワタわけであるが、いやちょっと待て。ゲッシュって自分で立てるものじゃないの??? そんな、他人から同意もなく押し付けられたゲッシュが効力を持つものなのか??? だったら戦いなんて非効率的なことしてないで敵にゲッシュを押し付け合う戦法がまかり通らない???)