螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

天使になった姿のデザインどうしよう……

「――〈聖餐は教会のなかで、善良な司祭によって与えられようと、悪徳の司祭によって与えられようと、ひとしく神聖である。かつて使徒の時代にみゆべき業をもってあらわれたかの聖霊が、神秘の原理をもって聖餐に命を与えているからである〉――」

 駆動文言(コマンドワード)。
 弱くとも、献身の誓いを果たせずとも、正義を貫くことができずとも、それでも神と正義に奉仕はできるのだと――かつての自分には、到底受け入れられなかったその言葉を。
 今、迷いなく、朗々と。

「――黄金錬成(クリュソペイア)――」

 フィンの片腕と片目から、鮮黄色の香気が沸き立ち、

 そんなわけで錬金術の資料本がさっぱり見つからなかったので、ふと目についた『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』からグレゴリウス一世の言葉を引用して苦肉の策とする俺であった。まぁ、俺は神も仏も一切信じてはいないが、しかしその教理の解釈をめぐって千年以上も思考と論議が交わされ続けてきた、その知の躍動をナメるほど愚かではない。この言葉は「たとえ生臭坊主の手で洗礼だかの行事が執り行われても、その効力は100パーセント問題なく発揮される」という意味であり、聖職者の道具的な性質を論じているのである。たとえ道具が不細工だろうと、その道具を振るう神の意志は無謬かつ神聖であるから、不細工な道具によって成された仕事も問題なく人の魂を救済に導くのである。この設定上の解釈を巡って大の大人が、しかも当時の最高の知識階級者が、大勢でマジになって考えているのだからその論理基盤はこの上なく強固である。これに対して無神論者の言説ってマジでつまんない。人生楽しめてないなぁと思う。まぁ、それ以前に、罪憐・ルシリウスの説法が俺の中での無神論に対する態度と考えてよい。

 

 時間切れ。

 

(不在を証明できないものを「いない」と言い切るのは科学的な態度ではない。無神論者は自らが崇拝する科学に対して誠実ではない)