螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

20日までにどこまで読めるものであろうか

 結果だけを言うなら、ヴォルダガッダの圧勝だった。下克上野郎は胸板をバッサリとぶった斬られ、倒れ伏した。
 そのままブチ殺そうと戦斧を振り上げたヴォルダガッダだったが、そこでひとつの事実に気づいた。
 鮮血が吹き上がり、腕を熱が走り抜けた。
 自分の武器が、砕けたのだ。破片が飛び散り、ヴォルダガッダに浅い傷をつけていった。
 何が起こったのかよくわからず、眉をひそめて使い物にならなくなった戦斧を見る。
 瞬間。
 下克上野郎が跳ね起きて、戦槌を肩口に叩き込んできた。即座に顔面を殴り飛ばす。
 地面に叩きつけられた敵は、今のが最後の力だったのか、もはや起き上がることもできなさそうだった。
「最初から武器狙いたぁな」
「うるせえクソが。殺してやる」

 ほんでな、『ワンピース』面白いんだけど、語れないんだわ。面白かった作品を饒舌に語れない。饒舌に語れるのは変な作品とクソな作品だけだ。なぜこうなったのか。面白い作品というのは、まぁ、当たり前のことを当たり前にやってるだけ、みたいなパティーンが多いのだ。言葉で解説すれば本当に当たり前のことしかやってないので、当たり前のことしか語れず、「こんな当たり前のことなど語る価値ないだろ」という思考になってしまう。これに対してへんな作品が変な理由や、クソな作品がクソな理由は、当たり前のことではない場合が多い。だから大喜びで語れる。しかし、本当に価値を持つのは面白い作品の面白い感想である。ところで、当たり前のことを当たり前にやるというのは、面白い作品の必要条件ではあっても、十分条件ではない。当たり前のことを当たり前にやっても、悲しいほどつまらない作品とういうものは存在しており、俺たちはいつもいたたまれない気持ちになる。この両者の違いを理解し、説明できるのならば、創作者はおまんまの食い上げであろう。誰にもわからないのだ。面白い作品の作者にもわからない。ところでワンピースは、グランドラインに入ったあたりまで読んだ。えー、えー、面白かった。あー、えー、えー、感想終わり。えー、何か、何か言うことはないのか。えー、えー、あー、うー、うー、面白かった(絶望)

 

 時間切れ。

 

(ううううううううううううう)