20日までにどこまで読めるものであろうか
結果だけを言うなら、ヴォルダガッダの圧勝だった。下克上野郎は胸板をバッサリとぶった斬られ、倒れ伏した。
そのままブチ殺そうと戦斧を振り上げたヴォルダガッダだったが、そこでひとつの事実に気づいた。
鮮血が吹き上がり、腕を熱が走り抜けた。
自分の武器が、砕けたのだ。破片が飛び散り、ヴォルダガッダに浅い傷をつけていった。
何が起こったのかよくわからず、眉をひそめて使い物にならなくなった戦斧を見る。
瞬間。
下克上野郎が跳ね起きて、戦槌を肩口に叩き込んできた。即座に顔面を殴り飛ばす。
地面に叩きつけられた敵は、今のが最後の力だったのか、もはや起き上がることもできなさそうだった。「最初から武器狙いたぁな」
「うるせえクソが。殺してやる」
ほんでな、『ワンピース』面白いんだけど、語れないんだわ。面白かった作品を饒舌に語れない。饒舌に語れるのは変な作品とクソな作品だけだ。なぜこうなったのか。面白い作品というのは、まぁ、当たり前のことを当たり前にやってるだけ、みたいなパティーンが多いのだ。言葉で解説すれば本当に当たり前のことしかやってないので、当たり前のことしか語れず、「こんな当たり前のことなど語る価値ないだろ」という思考になってしまう。これに対してへんな作品が変な理由や、クソな作品がクソな理由は、当たり前のことではない場合が多い。だから大喜びで語れる。しかし、本当に価値を持つのは面白い作品の面白い感想である。ところで、当たり前のことを当たり前にやるというのは、面白い作品の必要条件ではあっても、十分条件ではない。当たり前のことを当たり前にやっても、悲しいほどつまらない作品とういうものは存在しており、俺たちはいつもいたたまれない気持ちになる。この両者の違いを理解し、説明できるのならば、創作者はおまんまの食い上げであろう。誰にもわからないのだ。面白い作品の作者にもわからない。ところでワンピースは、グランドラインに入ったあたりまで読んだ。えー、えー、面白かった。あー、えー、えー、感想終わり。えー、何か、何か言うことはないのか。えー、えー、あー、うー、うー、面白かった(絶望)
時間切れ。
(ううううううううううううう)