だがそれがいい
価値を認めるがゆえに。
感得した。
命の尊さを。
かけがえのなさを。
慄く。
自分は今まで、なんということをしてきたのか。
なんと大それたことをしてきたのか。
本当に、愚かだった。
ヤビソーが怒るのも当然だ。
まったく、どうして今まで気づかなかったんだろう。
オレが今まで奪ってきた命の中に、価値のない、消えてもどうでもいいようなものなど、ひとつもなかったのだ。
それぞれの命に、それぞれの感動があったのだ。
意味があったのだ。
可能性があったのだ。
それを、俺は、煩わしいからと、もののついでのように、軽々と、殺してきた。
価値あるものを、価値ありと理解もせずに、雑に、淡々と、殺し続けてきた。
命は尊いものである。それを奪うのは途轍もないことである。
なのに、オレは、本当はそこにあったはずの感動に気づきもせず、つまらんつまらんと阿呆のように繰り返しながら、顧みることもなく、その価値を踏みにじり続け、あぁいつか強敵が現れないもんか、などと受け身の態度でこの世界をナメ腐っていたのだ。
ヤビソーの見る世界は、こんなにも輝いているのに。
甘ったれていた。そのことを、思い知らされた。救いはこんなにも近くにあったのだ。
こいつは、なんとまっすぐな剣理を振るうのだろう。
なんかまだ『獅子の門』パートが続く。あのー、そうゆうわけで『獅子の門』最終巻である『鬼神編』をそういえば一回しか読んでなかったなと思い返し、読んでいた。本作は、なんだ、構成的に言うと、少なくとも「これのマネをしたら面白い話が書けるぞ」などとは口が裂けても言えないような構造をしている。まず、明確な主人公が設定されていない、というのは前に書いたが、しかしそれだけならば唯一無二というわけでもない。『異修羅』もそうだ。しかし、異修羅と違うのは、「これがこうなったら終わり」という明確なストーリーのゴールが設定されていないという点である。作中最強の羽柴彦六と久我重明が戦い、決着がついたら終わり、というのは夢枕先生のなかでもあったのだが、問題なのはその最強マッチの実現が、別にこの『鬼神編』までもつれ込まなければならなかったわけではないという点である。全八巻のうち、別にどの段階で羽柴VS久我が始まってもよかったのだ。それを阻んだのは、ただひたすらに偶然とか、めぐりあわせとか、そんな程度のものである。この最強オッサンコンビが「いまはやるべきではない理由がある」と主体的に判断した結果などではないのである。では『鬼神編』までに何が行われていたのかと言えば、羽柴VS久我とは何の因果関係もない
時間切れ。
(ぜんぜん別の人の戦いであり、その戦いがあったから羽柴VS久我が実現したわけでもないのである。羽柴VS久我はストーリーの因果関係から完全に遊離した要素なのだ)