いやバッドエンドに至る話だとわかっているから、登場人物全員に悪感情しか抱けないだけか
『隣の家の少女』を買ってちょっと読んだ……なんだ、アマゾンのレビューにはリョナ趣味のやつしか楽しめないだろこれ、的なトンチンカンなことが書かれていたが、たぶんこれ、リョナ趣味の人間ほど正しく鑑賞できないと思う。俺も大概、惨たらしい場面は描いてきたが、しかしそれは「物語には障害がぜったいに必要である」という理屈の延長線上にあるものだ。その後の克服をより味わい深いものにするための前ぶりでしかなく、それ自体を描きたくて描いたわけではないのである。しかしリョナ作品のリョナ描写は、いずれ克服されるもの、克服を意義深いものにするために描かれたものではないのである。それ自体が目的なのだ。この違いは重要である。で、『隣の家の少女』はレビューを見る限り最後まで克服はされないのだが、しかしリョナ作品では断じてないと感じている。これは障害をもって読者を抑圧し、抑圧しっぱなしで最終的に圧殺することを目的とした作品だ。圧殺されるのが大好きという特殊性癖の持ち主は対象読者ではないと思う。とりあえず序盤しか読んでないけどエディ氏のまだ登場してないにもかかわらず「うわぁこいつ死なねえかな」と思ってしまう不快さに震撼している。
時間切れ。
(というか、読むの? 最後まで? なぜにホワイ?)