螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

ワクチンの予約をしたのだった

 説明と描写という、まぁネットでは無限に擦られている感のある概念について。俺はもうはっきりと「描写するなとは言わんがちゃんと説明もしろ」派(派っていうか、これ言ってんの俺以外に一人しか観測できなかったけど)なのである。というのも、「何も説明せずにわけのわからない展開をやる独りよがりの不条理」と「描写」の違いというものが、俺には区別できないからである。というのも、この二つはまったく同一の文章であったとしても読者によっては前者に感じられたり、後者に感じられたりと差異が出てくる。つまり描写は、読者の察し能力に激しく依存する表現技法であり、それだけに頼っていると俺のような読解力のない読者層からの支持は得られないと考えているのだ。読者からすると、作者の「これは不合理なことですよ、いずれ種明かしめいた説明が入りますからね」という意志を感じられないと、「自分はこの作品のエッセンスをきちんと受け取れているのだろうか?」という不安が生じ、それがリーダビリティを阻害していると思うのである。そんなようなことを、絶叫杯作品を読みながら思ったのであった。どの時点でどの程度の情報を読者に理解させるつもりなのかというのがはっきりしない作品は辛いぜ。

 

 時間切れ。

 

(ただそれが、絶叫王者の選定基準になるかというと別にそんなこともなく、絶叫シーンにおいてどれだけエモを喚起できるかが最大の焦点なのであった)