螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

……まぁ、これでもまだ描写は甘いくらいなんだけど

「もう二度と、誰も死なせないッ!!(ショットガンをガシャコン)」
(『ヘイロー』&『ヘイロー2』/テレビゲーム)
なんか悪いエイリアンとか現れたんでムッコロそうぜイーヤハー!(←ストーリー) 息をのむほど美しく広大なフィールド、あふれんばかりの武器弾薬、一握りの荒くれた戦友たち、そして殺しても殺しても殺しきれないほど大量にひしめく敵軍。――この作品において存在を許されているのは、それらだけだ。クリーンで愛らしく優しいものは一切なく、ただひたすら殺し合いがつづく、そんなゲームだ。暴力こそが万象を動かす原理であり、安息などというものは、無数の死を代償として自分で制圧した『ついさっきまで戦場であった場所』以外のどこにも存在しない。いかにも批判の対象になりそうな内容なのである。しかし――それでも、だからこそ、このゲームを少年たちにやってもらいたい。昨今の、あまりにも清潔で簡略化された描写でしか死を表現できなくなった社会において、暴力を振るうことの恐ろしさ、振るわれることの恐ろしさをわずかなりとも学べる可能性のある数少ない機会だと思うからだ。こういうものを規制しようとする人々はいつも「残酷な表現は青少年に悪影響を与える」というが、しかし、死を正面から見据えさせないでどうして少年たちに暴力の恐ろしさを伝えることができるだろう。人物の死を表現するのに誇張した描写を用いずして、どうして死の痛みをわからせることができるだろう。生き物が撃ち殺されたり斬り殺されたり焼き殺されたりするというのは、これ大変なことなのである。惨いことなのである。その惨さから眼をそらし、ただ赤い線や黒ずみだけでしか死を表現できなくなった昨今の少年漫画やアニメ。醜くグロテスクなものから強制的に守られ、綺麗で清廉で一切の汚れもない〝無菌室〟で育てられた子供たちが、はたして人の痛みを理解し、思いやることができるだろうか。このゲームは、そういった男の子たちのために〝暴力教育〟の貴重な教材として、大いに有意義なものであると私は確信している。