過ぎた善良さは狂気と区別がつかない
アンタゴニアス外典第四話を読み、唸る。なんという解像度。居石=サンは俺よりこの世界を理解している。この世界の出生率がどんな具合であるのか、俺は今まで深く考えたことはなかったが、外典においては「下がる」ということになっている。今までなんとなく「上がるのでは」と考えていた。なぜなら子供を惨たらしく扱うことはエネルギー確保の手段として非常に利便性が高いからだ。だが、そもそもの問題として、罪業が発生するには、人々の一般的な倫理が高くなければならない。ヒャッハーな世界では罪を罪と思われず、罪業は産出されない。ゆえにこの世界の一般貧民はそれなりにまっとうな倫理観を持っているはずなのだ。そのまっとうな両親が、こんな地獄めいた世界に我が子を産み落としたいなどと思うかという話である。みんな反出生主義に陥ってもしょうがない世界なのだ。ゆえに、下がる。そして下がったうえで、〈法務院〉がとる対策も決まっている。いい具合に非人道的だ。そしてそこで疑問が浮かぶ。どうやって倫理観を高く保っているのかという疑問が。あのー、罪業を発生しやすくするためにいい子になりなさい、などと言ってみんな従うわけがないのだ。いい子になるのは、いい子のほうが得をするからである。だがこの世界の現実はいい子を食い物にしてそれ以外の全員が生き残ることを主眼にデザインされている。
時間切れ。
(罪がエネルギーを生むという前提を一般貧民に隠しおおせるわけがないので、なぜ自分たちが高度な倫理教育を受けているのかをちょっと勘が良ければ理解できてしまう。それでも倫理観を高く保たせることは世界の維持の大前提として必要なことであり、〈法務院〉はこの難題をどうクリアしているのか)