螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

娘(大人)のケツアゴが見事だった

 つまりなんであるか。何か特定の事物に至上の価値を置く感じのテーマの物語は、構造的に矛盾をはらんでいるのではないのかということである。愛は素晴らしい。それは良いが、そのことを物語に落とし込むと、「愛を胸に頑張ればこんないいことがある。だから愛は素晴らしい」という形になってしまいがちである。しかし――それは、なんか、違うだろう、と思えてならない。「たとえ何も報われずとも、何一ついいことなどなかろうと、それでも愛は素晴らしい」ぐらいのことは言ってくれないと至上の価値とは言えないのではないか。こういういいことがあるから愛は素晴らしい、は、つまり愛の価値は条件付きである、という風に取られかねないのではないか。だが同時に、報われなかろうと愛は素晴らしい、では「全然素晴らしくねーじゃねーか!!!!」って思われてしまうように思える。まぁ一番簡単な解決策は、客観的・一般的には愛のせいで不幸になる主人公であったが、本人的には「愛してよかった」と魂の底からつぶやきながら死ねば、そしてそのセリフに視聴者を心から共感させられれば、恐らくいける。問題はそれをどうやって共感させるかと言うことであり、

 

 時間切れ。

 

(この意味で『刃鳴散らす』はマスターピースとも言うべき完成度であったと思う。赤音パイセンは一般的・客観的には不幸になったが、(そして周囲の人間すべてはそれ以上に不幸になったが)本人的には救われて大満足に死んだのが最高に「宿敵との尋常な決着より大事なことなんてこの世にないよね!!!!」というテーマがすっと消化できたのであった)