螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

ヒュガッ!

 笑いには三種類あると思います。
 1、おかしくて、自分のために行う笑い。
 2、おかしくもないのに、他人のために行う笑い。
 3、おかしくもないのに、自分のために行う笑い。
 1は普通の笑いです。特に説明の必要もありません。2は取り繕う笑いです。その場の空気を悪化させないために、笑いたくもないのに笑うことです。
 そして3。
 これにはまた数種類あって、照れ隠しや気まずさをごまかすための笑いと、過度の恐怖や怒りや悲しみから逃避するための笑い、そして笑う対象を本心ではおかしいと感じていないにも関わらずに「それが面白いものである」と信じたいがために行う笑いがあります。
 最後の例は、最近とみに覚えがある。
 夜。大切なひとりの時間。インターネットで笑えるサイトに行き、更新されたネタを見る。
 そして、乾いた笑い声を上げる。
 本心は、べつにおかしくはないのです。
 しかし、自分は笑いを求めてこのサイトにアクセスしたのです。
 笑えないことを認めると、アクセスするまでに費やした数クリックかの労力と、抱いていた期待は、まったくの無為であったということになってしまう。
 それに、このサイトは過去に何度か私を大笑いさせたことがある。製作者に対する尊敬と信頼がある。
 おかしくないはずがない。おかしいはずだ。おかしいだろ。おかしいなあ。アッハッハ。
 とても、哀しい笑いです。
 お笑い業界も、この哀しい笑いによって支えられてきた部分が、多少はあると思います。
 しかし、それは心からの笑いではない。笑うことは義務ではないのです。
 さらに恐ろしいことに、そうした欺瞞の笑いを続けているうちに、いつしか本当におかしいと思い込むようになってしまう例があります。
 その時出てくる笑いは、果たして良い笑いなのか、哀しい笑いなのか。ボクにはまだ、判断がつかない。
 しかし、その人の笑いに対する感受性が退化していることだけは確かな気がするのです。