螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

むつかしい

f:id:beal:20200916223017p:plain

現実に起こることと、表現であることには根本的な差異があって、表現の自由を妨げるものではない、と考えます

 ここは非常に大切なところで、まぁ現実とフィクションの区別を付けろ、とよく言われますが、それがまぁ一般的な考え方であり、多くの人間に賛同されうるところであるのは重々承知していますが、しかし俺はこの考えには完全には賛同できないんですよね。まぁ、フィクションは現実ではない。それはまぁそうなんですが、かなり前にここで適当にくっちゃべったことがありますが、何らかの形でフィクションが存在していることは現実であり、それを摂取して感動した俺がここにいるということもまた現実である以上、フィクションは現実を構成する一部であると言えると思います。この理屈を「表現規制ザマス!」な人たちに同様に当てはめると、不快なフィクションが存在していることは現実であり、それが目に触れて不快感を覚えたこともまた歴然とした現実であるわけですな。つまり、ザマスたちにとって不快な精神的暴力を受けたという「害」は実在している。いや、「ザマスたちにとって」などという枕詞を付ける必要はない。ありとあらゆる観点から言って、「フィクションによる害は現実である」と言っていいと思います。腕力による暴力は現実であり、言葉による暴力も同様に現実である以上、フィクションによる暴力だけが自明のように特別視される理屈には違和感を覚えるのです。

 

 時間切れ。

 

(だが、ザマスたちの主張はあまりにも的外れであり、現実の好転に何ら寄与しない妄言、幼稚な攻撃性の発露に過ぎないことは論ずるまでもありませんが、では「フィクションは現実ではない」という主張を無条件で前提にして、果たして良いのか? というのが、どうにも、断言ができない)