螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

主人公の新スタンドカッコイイ(脳を使わない感想)

 つまりなんであるか。我々オタクは、常に表現規制に対して否の立場を取り続けてきた。「いやなら見るなバーカ」である。その気持ちは今も変わっていない。変わっていないが、この主人公を見て、新たな思考が芽生える。「私の気に入らないコンテンツはこの世から抹殺するザマス!!」とかほざいてんのは疑いなく幼稚な不寛容さの産物でしかないが、しかし、それは「うるせえ!! 人の気持なんか知るか!! 俺は俺のスキを表現する!! その結果どれだけ人が不快になろうが知るか!! いやなら見るなバーカ!!」という言説と比べて、果たして優劣のあるものなのか。どちらも救いようのないポジショントークであり、ただの説得可能性のない感情論であり、そういう議論を丁々発止とぶつけあってんのは幼児の喧嘩と何が違うのか。つまり、後者の主張が前者の主張より絶対的に正しいとする根拠が果たしてあるのか。たとえば、「人が嫌がることをする」のは疑いなく悪いことだ。では「人が嫌がることをする」のと「人が嫌がるコンテンツを発信する」ことの差はどこにあるのか。明白な違いは「目的」である。

 

 時間切れ。

 

(人の嫌がるコンテンツを発信している奴は別に嫌がらせるために発信しているわけではないのである。悪気はないの!! 許してあげて!! いや許されていいのか? 動機の違いなんてどうでもいいのでは? 問題なのは「人を不快がらせた」事実であって、行為者の頭の中がどうであるかなんて考慮すべきではないのでは? という考えに対して、俺は明白な反論を行えないでいる)