螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

んぎぎぎぎ

 P5Rを進める。いや、アギュギテムは? いや、インプットしないと……いけないから……ペルソナやってていいアイディアが出るとでも思ってるんですか??? たぶん、出ないよね……だがそれはペルソナに限らず他のどの物語だろうと「たぶんアイディアは出てこない」という点に変わりはなく、ならばペルソナ5だけを忌避する意味が分からんだろという話になってくるんですよ。というかもう、ちゃんと終わらせないとダメですから。そして今日はペルソナ5しかやってないんだからP5Rのこと書くしかないでしょうって話になってくるじゃないですか。そうゆうわけで第八のパレスの攻略が始まったわけであるが、まぁなんだ、平たく言うと万仙陣展開なわけだが、えー、まぁ、俺は過去にも「完璧な救いを即座に与えてくれるラスボスに対してどう論破するのが理想であるか」というテーマでなんか書いていたような気がするが、実際のところ「永続しない」と「個人の裁量で全人類の幸福を規定するのは無理がある」の二点くらいしか俺自身が説得力を感じる反論は思いつけなかった。現実を歪めて万人を幸福に導くこと自体は、その救いがあらゆる見地から言って瑕疵なく完璧なものである限り、否定できるものではないと思う。P5Rの主人公たちも、「現実」を無条件で尊ぶべきものとして扱っているが、

 

 時間切れ。

 

だが、だからといって「理想的ではない現実」を無批判に全肯定するなど単なる思考の停止である。我々は常に前に進むことを考えねばならぬ。理想的ではない現実を、それでも少しでも理想に近づけようと足掻く者のみが、「現実」を語る資格を持つ。

どのような形であれ、長く存続することと、構成員が幸福を感じてゐること。この二点だけが社会を評価する基準なのだと思うのである。自らの苦闘の結果として勝ち取った幸福と、慈悲深き神に与えられた幸福。この二つに貴賤はない。幸福であるかどうかが重要なのであって、苦しんだかどうかを重視するのは手段の目的化にほかならぬ。

 総十郎にこういうことを言わせたが、かなり俺自身の考えに近い。そしてそうなると、P5Rにおけるラスボス存在のやっていることを、強く否定するわけにはいかないのである)