螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

失うことからすべては始まる。救世の道は死狂いなり。

 いや、実際のところ、主人公たちはこの救いを拒絶する以外にないのだ。ここで受け入れてしまったら、物語としてあまりにも駄作になってしまう。あのー、使い古された言い回しだが、デウスエクスマキナエンドになってしまうのだから。最後に救いがあるのは良いが、それは主人公たちの奮闘の結果でなければならない。だからこの展開自体は不可避なのだ。だが、だが、俺は「完璧な救いを即座に与えてくれるラスボス」に対して、もっと別の回答はできないものなのかと考えてしまう。だってオレは「幸福であるかどうかが重要なのであって、苦しんだかどうかを重視するのは手段の目的化にほかならぬ」考えなのである。というのも、万仙陣のラスボスとは異なり、P5Rのラスボス氏は良識と常識を兼ね備え、人情を理解する、非常にバランスの取れた人格者であり、歪みと言えば「人を救うという執念が並外れている」ことぐらいしかなく、めちゃくちゃまっとうな人物なのだ。彼が作る新世界は、恐らく「人の欲望をどこまでも無制限に満たし続ける」というような、ある意味不健全なものにはならないだろうという確信がある。ここまで瑕疵のない(「完璧すぎる」という瑕疵すらない)善人として描かれるラスボスはちょっと他に見ないレベルである。まぁしかし、彼の評価や主張の是非については

 

 時間切れ。

 

(彼を倒してから論じるとしよう。もうちょっとかかりそうである)