螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

さもなくば四部以前の死闘がすべて茶番に堕してしまう

 いや、昨日の日記で、なんか納得できないと書いたが、よくよく考えてみれば納得できたわ。キングクリムゾンとエピタフの能力の存在は、前提としてジョジョ世界が決定論的な宇宙である必要がある。さもなくばあの能力は成立しえない。つまり人類は本当は自由意志などなく、判断など行っておらず、すべては指一本の些細な動きに至るまでことごとく運命に定められており、自力でそのさだめをぶっちぎることは不可能である、ということだ。ゆえにボスがキンクリでボラボラを回避しようがすまいが関係なく、ボラボラは継続される定めであり、「意識」自体が単なる錯覚に過ぎず、本当は存在しない。その中で、運命に自分の意志で限定的ながらも干渉できるキンクリを持つボスは、この世で唯一の自由意志の持ち主であったとする、かなり絶望的な世界観が明らかになってくる。ゴールド・エクスペリエンス・レクイエムがこの世に誕生するまでは、世界はそのような「目覚めることなき奴隷」でしかあり得なかったのだ。あるいは、こう考えることもできる。ボスがキンクリに覚醒したその瞬間から、宇宙は決定論の軛に繋がれるようになったのかもしれない。本当はさだめられた運命などなかったはずなのだが、キングクリムゾンはそのような宇宙観を邪悪に歪め、束縛していたとする解釈も成立しうる。

 

 時間切れ。

 

(というのも、「本当は運命などなかった」ということにしないと、キンクリで運命に干渉できること自体が無茶苦茶というか、「キンクリによって歪められたあとの運命は誰がどうやってシナリオを書いているのか」という疑問が新たに発生してしまうためである)

それは「運命」である、という回答もありうる。しかしそれも完全には納得できない。理由は明日述べよう

 あー、ジョジョ五部アニメをなんだかんだで終盤まで見たのだが、あのー、レクイエムでそれぞれの人格が入れ替わった時の、ミスタが憑依したトリッシュがやけに可愛かったことが印象的であった。いや、ちげぇよ、TSミスタがどうとかそういう性癖の話じゃねーよ。なんかトリッシュの中の人の声は、男っぽい演技の時の方が可愛さが重点されるんじゃないのかという話だよ。いや、そんなことよりも、ジョジョ史上最もわからない能力としてよく名前が挙がるキングクリムゾンだが、俺も良くわからない点を洗い出してみよう。時を消し飛ばす。消し飛ばしている間は完全無敵になるが同時に攻撃もできなくなる。ここまでは良い。そして消し飛ばしている間に敵の動きを見て、そこから時飛ばし終了後の敵の動きをかなり正確に予測ができるため、立ち回り性能がずば抜けて高い。まぁそこもいい。問題なのは、時飛ばし中も敵が動いているという事実の方である。たとえばナランチャがボラボラとすごい勢いでボスに攻撃を仕掛けたとする。ボスはキンクリで余裕綽々に回避したとする。問題なのは時飛ばし中もナランチャは攻撃し続けているということである。ナランチャ自身は時飛ばし中の世界を認識できていない。では時飛ばし中にボラボラ攻撃し続けたのはいったい誰の意志なのかということだ。

 

 時間切れ。

 

(これは「時飛ばし中のボラボラも、もちろんナランチャ自身の意志で行われているのだ」と解釈するのが最も自然である。つまり時飛ばし終了時点でナランチャの記憶がカットされるのだ。それまでは普通に意識が連続しているのである。ところがこの説には矛盾がある。時飛ばし中にもナランチャに意識があるのなら、当然判断力も備わっているはずである。この時ナランチャが見る光景は、「ボスの姿が唐突に消える」or「攻撃を浴びせてもすり抜けるだけでまったく効いていない」のどちらかだと思う。そしてそのどちらであってもナランチャはそのまま同じように攻撃を継続するわけがないのである。ところが実際には何の不信感も抱かずにボラボラし続けたという結果が残る。明らかに矛盾である。以上の理屈から、「時飛ばし中のナランチャの行動は、ナランチャの意志が介在していない」と考えられる。ではナランチャの体を動かし、エアロスミスに攻撃を命じたのは一体「誰」か。あるいは、「何」か。どのような機序で時飛ばし中の行動は決定されているのか。謎である)

まだ当時どういう状況だったのかわからないので、希望をつなぐしかない

 『A.I.C.O リンカーネーション』第二話を視聴する。あのー、要するに、臓器移植の延長線上にある技術として、代替として移植しうる人体をすべて生成する技術が出来上がり、で主人公の女の子は、その最初の移植手術を受けた存在であり、脳以外のすべてが人工の肉体であると。そしてその手術を行う際に、何らかのアクシデントがあって、人工肉体が「自分は損傷を受けた」と勘違いして、自分を治癒しようと細胞分裂を無限に繰り返し始めたと。それが第一話で暴れ狂っていたグロ肉塊であり、バーストと呼ばれる現象であると。あのー、ツッコミどころ満載と言いますか、コンセンサスは……コンセンサスはどうしたァァァァ!!!! なんでそんな重大かつ未完成な手術をするのに本人の了解を取ってないの!!!! いや取れねえんだよ! 主人公はそのとき意識を失って昏睡してたから!!!! じゃあ別の被験者でやれやァ!!!! いやまぁ、ツッコミどころがないと、話が始まらないじゃないかという向きもあるでしょうが、いや……それは正直……甘えじゃないかなぁ、と思うんですよね……ツッコミどころを潰すことが目的化した作品は大抵つまらないのは確かだが、だからといってツッコミどころを潰さなくていいなんてことにはならないのだ。

 

 時間切れ。

 

(本気で世界を創ってくれ。少なくとも誰かがわざとこの事態を引き起こしたのだという感じにしてくれないと、俺はこの手術に関わりし者全員に「無能」「社会人失格」の烙印を押さざるを得なくなる)

とはいえととのい状態は一時間強ぐらいしか持たないのだ

 NOTEのルビ振り作業に明け暮れた結果、中指でマウスホイールを酷使しまくり、中指だけ腱鞘炎みたいなことになってしまった。満足にファックサインもできやしねえ。明日からどうやって社会生活を営めばいいんだ。出勤した時まずファックサインしないとか社会人失格ですよマジで。それはそれとしてルビ振り作業が快感すぎる。なんということか。単純作業で、成果が実に俺好みに美しく目の前に立ち現れるので楽し過ぎる。正直他人のnoteのルビ振り作業もしたいまである。あー、今日はサウナをキメた。そしてととのうという感覚の正体? というかなんというか、感度3000倍になって血流がもう快感になってるような感覚ですわ。なんだ、存在しているだけで気分がいいみたいな。これは間違いなく心因性の物ではなく、なんらかの神経を自然にはあり得ない状況でハックした結果得られる快感であろう。ととのった状態で帰宅して寝っ転がって視聴する『ムービング・アート』はマジで麻薬の類。そのうち規制されると思う。あと三半規管も何らかの変調をきたすようで、外気浴中に、あのー、ぐるぐる回転して目を回したような、静止しているのにどんどん傾いていくような感覚があったが、決して不快ではないのだ。

 

 時間切れ。

 

(まぁ少なくとも休日の昼下がりを酒飲んで過ごすよりは健康に良かろうよ)

わっかんね

 あー、ケイネス先生の聖杯戦争、第八局面をアレする。ここで問題となるのが、蒼崎燈子氏にこのような魔術礼装を作る力はあるのか否かという問題である。魔眼殺しの眼鏡を制作した実績はあるので、ディルムッドのホクロの魔力を遮断する装具自体は問題なく作れると思う。そこではなく、ディルムッドと一緒に霊体化できる装備品などというものを制作できるのかという問題だ。それはつまり、「物質の霊体化」であり、あのー、アタシ良く知らないんだけどさ、第三魔法と真逆の行いじゃないですか要するに。そう考えるとだいぶとんでもないことをしているような気はするんですな。いかに最高峰の魔術師といえど、そんなことできていいのか? いやまぁそもそも『空の境界』読んだのだいぶ昔で内容はほぼうろ覚え(というかよく理解してない)なので、なんとも言えないのだが。ただ、黒鍵とかが、「魔力の物質化」をわりと気軽に行っているので、なんかもうそのへんはゆるくていいんじゃないスかね? という気分にもなっている。まぁそれはそうと、今回のホクロの活用法はなかなか我ながら良かったのではないかと思う。使い魔大量生産の原理的理由づけにかなり説得力を付与できたのではなかろうか。まぁ、

 

 時間切れ。

 

(そもそもこれって使い魔の作成というか、死霊術なんじゃねえの? みたいな疑問はある。この二つの違いってなんなんだろう?)

梵我一如

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 だからまぁ、つまり、なんか塞がれただけでその向こうは認識できなくなるという視覚の欠点をディスる感じの方向で、なんかどうにかできないかという感じの話である。これを、人生における迷いと不明の根源であるというような方向に話を持っていくことはできまいか。つまり、視座を特定の一点のみに固定するということそのものの脆弱性というか。螺導の世界観はそうではなく、世界そのものが視座であり、視座は遍在しており、「特定の座標に存在する視点」などという概念はなく、世界自体をそのものとして感得しているというような、なんかそんなん。アートマンブラフマンの合一とでも言えばよいのか。当然、深淵接続者としての認識は、視覚に囚われた狼淵とは異なり、より高次のものになっている。それは、なんだ。アートマンブラフマンを区別すると言うこと自体の否定であるのか。本当はブラフマンしか存在していないということに螺導は気づいているのか。つまり精神的には奴はすでに深淵と等しいものとなっているのか。こうなるともっと不二一元論に対する解像度をもっと高めたい気持ちが出てくる。なんかまた資料本を買わねばならんか。そして過去編は今後どのような展開を辿るべきか。もちろん螺導にも

 

 時間切れ。

 

(少年時代はアートマンに囚われていたはずであり、それゆえに友達もいた。しかしその大切な友達が失われ、その結果としてブラフマンを認識するに至るのか。しかしてその友達は、人間ではないほうがいいような気はしている)