梵我一如
だからまぁ、つまり、なんか塞がれただけでその向こうは認識できなくなるという視覚の欠点をディスる感じの方向で、なんかどうにかできないかという感じの話である。これを、人生における迷いと不明の根源であるというような方向に話を持っていくことはできまいか。つまり、視座を特定の一点のみに固定するということそのものの脆弱性というか。螺導の世界観はそうではなく、世界そのものが視座であり、視座は遍在しており、「特定の座標に存在する視点」などという概念はなく、世界自体をそのものとして感得しているというような、なんかそんなん。アートマンとブラフマンの合一とでも言えばよいのか。当然、深淵接続者としての認識は、視覚に囚われた狼淵とは異なり、より高次のものになっている。それは、なんだ。アートマンとブラフマンを区別すると言うこと自体の否定であるのか。本当はブラフマンしか存在していないということに螺導は気づいているのか。つまり精神的には奴はすでに深淵と等しいものとなっているのか。こうなるともっと不二一元論に対する解像度をもっと高めたい気持ちが出てくる。なんかまた資料本を買わねばならんか。そして過去編は今後どのような展開を辿るべきか。もちろん螺導にも
時間切れ。
(少年時代はアートマンに囚われていたはずであり、それゆえに友達もいた。しかしその大切な友達が失われ、その結果としてブラフマンを認識するに至るのか。しかしてその友達は、人間ではないほうがいいような気はしている)