男が最後に行き着く場所2
で、なんであるか。
「男を救済しうる価値」についてである。
価値というか、欲求と言い換えてもよい。
三人は満たされていた。欠けたるところは何もなかった。
三人は満たされていた。誰のことも恨んではいなかった。
三人は満たされていた。だからより高次のものを求めた。
これである。この在り方である。
「守るため」とか「取り戻すため」とか「復讐のため」とか、そんな動機は、誤解を恐れずに言うなら女々しいのである。根本的に受け身なのである。何か不都合な状況があり、それに対応するために生じた、偽物の欲求なのである。
同様に、「食いたい」「寝たい」「ヤりたい」も受け身の欲求である。「生物」という、不完全な枠組みの中でしか存在しえない我々が、生きていくために仕方なく編み出したものに過ぎず、いうなれば状況に屈しているのである。
「名誉欲」「支配欲」「承認欲」もまた、他人という状況が作り出したハリボテの欲求である。
真の欲求とは何か。
まずそれは、やらずとも生きていく上で何も困らないものでなくてはならない。困るものであったら、生存欲求の延長と区別がつかず、それを真の欲求として認識できない。認識できないものを守り育てることはできない。
そして、他者の有無によって揺らぐようなものであってはならない。他者と分かち合えるものであってもならない。誰に認められなくとも、誰に褒められなくとも、まったく関係なく「やりたい」と思えるものでなくてはならない。
そんな欲求が存在しうるのか。
少なくとも、テューン・フェルベル、武田赤音、リンゴォ・ロードアゲインは「ある」と言っている。
俺もあると思う。
そして、そういう欲求を抱くには、すべての偽欲求に惑わされない自分になる必要がある。最も手っ取り早いのは、「受け手の欲求」を片端から満たしてゆくことである。あるいは、最初からそういう欲求を抱かないことでも、道は開ける。三人は、これら二つの方法論の複合によって、「真の欲求」を抱く境地にたどり着いた。
それが「男の世界」である。
周囲の状況に依らない、純粋なる欲求である。
もちろん、特殊な精神構造の人間であれば「受け身の欲求」を自らの魂に根差す真の欲求として昇華している場合もありうる。
が、少なくともフィクションにおいて、それは「真の欲求」を描く上で適切な方法とは言えない。なぜならそんなことをされても、読者は「真の欲求」を「真の欲求」として認識できないからだ。
何が言いたいのか自分でも整理できなくなってきたのでひとまずつづくッッ!!
本日の執筆記録:三十行はかたい。