螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

もともとこっちが本流で、サーヴァントシステムが模倣なのは知ってるよ!!!!

 そして――[頭脳中枢の位置の違い]。
 言うまでもなく今のヴォルダガッダの本体は汚染幽骨ではなく魔導大剣の方である。血の神は、己自身を武器として繰り出し、叩きつけてきているのだ。
 その鍔元に埋め込まれた一抱えもある宝玉の内部に、まるで琥珀の中に捕らえられた虫のごとく、奴の脳髄が埋まっている。
 刃を通じて伝わってくる衝撃を、脳で直接感じている。
 ――大陸系の武術には、「聴勁」と呼ばれる境地がある。
 打撃や組み合いで相手と接触した点から伝わってくる反動と衝撃の方向および質を解析し、次の行動を予測する奥義だ。
 それに気づいた瞬間、総十郎は生涯で初めて、[己の死を確信した]。
 この拮抗に、総十郎の腕力も意志も介在していない。すべてヴォルダガッダがシナリオをお膳立てた、予定調和のやり取りだ。
 お互いがお互いの出しうる手を完全に知悉し、最適解のみを交わし合う。
 極めて高度に完成された二人零和有限確定完全情報ゲーム。
 ――五十二手先で、詰むな。
 そのことが分かっていても、もはや逃れられない。血の神の撃ち込みを反撃に展化し、相手に対処を強いることで次の太刀筋を限定する。それ以外に目先の死を回避する方法がないのだ。間合いを取ろうとして少しでも違う動きをした瞬間、さらに深く踏み込んで放たれる一閃への対処が後手に回り、選択肢がより狭められ、死期が早まる。
 この剣闘において優劣を分けたのは、ひとえに殺意の深さであった。
 総十郎にとってヴォルダガッダは、やや面倒なだけの障害でしかなかった。首を刎ねられ死んだと聞いて、それきり頭を過ることすらなかった。
 だが――ヴォルダガッダにとって総十郎は、生涯で初めて向き合った他者で、初めて生きることに意味を吹き込んでくれた恩人で、[こいつを殺せるなら死んでもいい]と思わしめた存在で。
 ――あぁ、わかるぞ。存分に、感じ取れるぞ。
 ヴォルダガッダが、どれほどの思いで今この場に立っているかを。
 どれほどの思いで、総十郎との邂逅から現時点まで生きてきたのかを。
 決して多くはない脳のリソースを、常に総十郎との模擬戦闘に費やしてきたのだ。
 そのせいで、本来はもっと善戦できたであろうギデオンに、一瞬で討ち取られる結果を招いたとしても。
 それでも、ヴォルダガッダはそうしたのだ。
 そうする以外になかったのだ。
 あるいはそれは、雛鳥が最初に見た者を親と認識するがごとき、刷り込みだったのかもしれない。だがそれでも、ここまで深く強く純粋に思われた経験は、総十郎にはない。
 奴の頭に、打算などが入り込む余地は微塵もない。
 欲望などからかけ離れた、純然たる、透き通った、結晶化した、胸を締め付けられるほどの――殺意。
 欲求を越えた、欲動。何のための手段でもない、ただ究極の目的。
 無垢なる祈り。
 ――わかった。小生の負けだ。
 根負け、するしかないだろう。
 もはやヴォルダガッダにとって、生きるとは総十郎を殺すことなのだから。
「おぬしを殺す。」
 言葉の形で、敬意(サツイ)と決意(サツイ)を表明する。
 生まれて初めて、何かを守るためではなく、ただ殺すために殺す。
 この者の命には、それだけの価値があると認めたから。

 あのー、昨日は、なんか日本中で大規模なネット障害が発生した感じだから、俺悪くないから。悪いのは世界だから。そんな目で見るな。で、えー、えー、なんか、もう少しで終わるんじゃないか? これ? あ、そうだ、それであのー、拍手メッセージ来てたわ。

公募とかはされないんですか? もともとはプロモが苦手な方のための出版社だと思うのです。

 いやー……どうかなぁ……あんまり魅力を感じないというか、そもそも通るとも思えませんしねー。まず公募の枚数制限内のものを書けないという問題もある。で、えー、あー、『イド』を最終話の一話前まで見る。面白かった。サイコパス三期より面白い。面白いのだが、一体なぜなのかと言われるとまったくわからないのである。どっちもセリフによる情報が多すぎて、いまいち話についていけないのは同じなのだが、『イド』の方が明らかに続きが気になるのである。なぜだ。わからん。まず、主人公のダウナーな口調が良かった。それは間違いない。だがそれだけでこの印象の違いが出るとも思えない。結局何もわからないままこの話は終わる。あー、えー、一応『絶対魔獣戦線バビロニア』も見てはいるんだけど……その……ソシャゲの時にはさ、「これはソシャゲで、全部セリフで作劇しなければならないというキツい制約があるから……! 仕方ないから……!」

 

 時間切れ。

 

(みたいな自己欺瞞をして目をつむってきた「存在の耐えられない軽さ」というか、世界観(世界設定にあらず)の統一感のなさというか、冬木の聖杯戦争であれば、「トップレベルの魔術師たちが一致協力して狂気じみた執念のもとやっと実現を見た奇跡」としての説得力があった「英霊召喚」が、なんかこう、誰の意志も介在しないでほいほいと現界しまくってるのが非常になんというか嫌というか、でもソシャゲだからしょうがないからという欺瞞で己をごまかしてきたが、こうして高品質アニメとして流されるとサーヴァントという神秘が見る影もなく零落してしまったのがめちゃくちゃはっきりと突き付けられてきて俺はなんとも悲しい気持ちになった)