螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

うー、うー、

 あー、駄目だ。アギュギテム、プロット書いたところまで書いてしまったので、プロットを書くしかないのだが書けなかったので今日は本文書けなかった。プロットが書けない。何も思いつかない。プロットとかなんでみんな「手足を動かしたり呼吸したりするのに「どうやって」とか聞かれても困るよ」みたいな顔でプロット書いてやがるんだ。ぜんぜんわからない。俺には彼らがなぜプロットが書けるのかがまったくわからない。あー、うー、あー、『忍者と極道』第二巻を読了する。あのー、忍者と極道が戦う漫画だ。極道側のボスとして、極道(きわみ)氏がいるわけだが、彼は感情を持たない人間である。しかし部下からは、「感情を持たないがゆえに彼は誰よりも孤独だ。だから俺たちはぐれ者の孤独を一番わかってくれる」というロジックで慕われていた。しかし俺はここに疑問を覚える。いや、極道氏の思惑もまた「すべての孤独な者のために戦おう」みたいなアレなのだが、あのー、俺が以前言ってた「哲学的ゾンビはなんで人間のフリをするのか」という疑問が彼にもそのまま当てはまるような気がする。なぜ感情を持たない者が、自分と重なる境遇の者のために戦おうとするのか。それは共感と言う名の感情があると言うことではないのか。

 

 時間切れ。

 

(そうではないというのなら、本当に感情がないというのなら、彼の行いと言葉のすべてが演技であり空虚であり欺瞞ということになってしまうではないか。また、「孤独な者」は愛すべきだが、「孤独」そのものは基本的に「厭うべきもの」として捉えている作品であるが、しかしなぜもっと己の孤独を誇らないんだ!! と思ってしまうのだ。積極的孤独を描くことはできないものか)