螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

なんかどうしてもラスボス氏の肩を持ってしまうな

 つまり、「執念と努力によって現実を変える」ということ自体は主人公たちも当然否定はしないはずである。だが、それを言うならラスボス氏とて「執念と努力によって現実を変えている」ことに変わりはない。違いは、手段が超常的なものであるかどうかでしかない。ならば手段を否定しているのか? 「そんなもの使わなくたって、幸せにはなれるんだよ」っていうのが、こいう場面でよくある主人公言動であるが、しかしそうであるなら別に超常的な手段であっても良いのではないか。君らが今まで頼みにしてきたペルソナ能力は超常的ではないとでも言うつもりなのか? そもそも、ラスボス氏が、救済のために犠牲が必要だとか言っているのなら、手段を否定する理屈も成り立つが、ラスボス氏は誰一人取り零さずに幸福にするつもりなのである。そして――間違いなく、ラスボス氏にしか救えない人間というものは、世界に相当数、いる。主人公たちは、己のエゴによってそれらの人々の希望を踏みにじった形になるのだが、それについては特に掘り下げられたりはしなかった。件の性的暴行を受けた女の子に、ラスボス氏の救いを受け入れるかどうかを尋ねたら、どういう答えが返ってくるのであろうか。人生には「無用の苦しみ」というものがある。

 

 時間切れ。

 

(乗り越えて、人間的成長をもたらす苦しみもあるだろうが、ただひたすらその後の人生に害悪しか及ぼさない苦しみというものもある。性的暴行を受けて自殺未遂した経験が、いったい彼女の何に役に立つと言うのか)