螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

おごごごご

 『神のふたつの貌』を読了する。おぉ……面白かった!!!! まぁ、主人公は神学上の理由から、複数の殺人を犯すわけであるが、なぜかその事実が明るみになることはなく、もちろん逮捕もされないどころか、人が死んだ事実すら人々の口の端に登らない。いったいなぜなのかと思っていたら、そう来たか。予想外であった。いや、恐らくミステリーを読み慣れた人間ならば、最初の段階で「恐らくそういう仕掛けがくるな」と予測できるのだろうと思われるし、自分でもなぜその可能性に気づかなかったんだ、素直か!! というツッコミをしたくもあるが、しかし気づかなくて良かったと心から思える。しかし、主人公の思想はよくわからなかったというか、苦しむ者ほど神の愛が注がれるというなら、いままさに苦しんでいる者を殺すことは、救いにならないのではないか? 主人公は明らかに苦しみから救うために殺しているが、苦しむことが神を認識する道であるはずではないのか? ならばなぜそこに余計なことをするのだ? どうもよくわからなかったな。人を殺すことが救いだとか抜かす三流サイコ野郎とは異なる存在として主人公を捉えたいのだが、どうもその殺人の根底にある理屈がよくわからなかった。

 

 時間切れ。

 

(神は無意味な苦しみをお与えにならない。苦しむほどに神の愛は近づく。しかし無痛症ゆえに苦しむことができない主人公は、どうしても自分では神の愛を認識できない。できないながらも、利他と慈愛の心を持って人を殺す。しかしその殺人は、苦しんでいない(神の愛から遠い)人間に苦しみを与えてこそ筋が通るのではないか?)