寄せてはかえし 寄せてはかえし かえしては寄せる波
『百億の昼と千億の夜』を読み直してみたらなんかいろいろ語りたくなったので語ります。ワァーオ!
一言で言いあらわすなら、そう、「寂寞」。
全編通じて執拗に描かれる、空漠かつ荒涼とした世界描写が、読者の心底に冷たく乾いた風を吹き付けてくるようです。
滅びに瀕し、滅びが免れ得ない段階まで至ってしまい、しかしまだ滅びてはいない文明たち。
いっそ完全に滅び切って、真の虚無が描かれているだけなら、ここまで寂しく空しい気分にはならなかったことでしょう。
しかし、そうではない。
最も冷たい絶望を感じさせるタイミングを切り取って、荒廃の描写は成されます。
三人の主人公たちは、そういうわかりやすい原因の存在しない滅びに疑問を感じ、どうにか阻止するために戦いを始めます。その道中、行く先々で濃厚な滅亡の情景を目の当たりにしますが、しかし一度として救うことはできません。
なぜなら、文明が崩壊するのは、宇宙が発生する瞬間から仕組まれていた絶対の摂理だから。
すべての文明は――文明に限らずありとあらゆる変化反応は――最初から終わるために始まったようなものだったから。
あるいは、こう言い換えてもいい。
あるところに科学者がいて、彼は乾電池を開発していた。
それは、完全に密閉された容器の中で複雑な反応系を組み立て、それらの代謝活動から電力を得るというものだった。
ところがあるとき、試作された乾電池の中で、科学者の意図しないエネルギー粒子の集団が観測された。それらは恐るべき速さで周囲のエネルギーを取り込み始め、急速に複雑な構造を形作っていった。そしてついには乾電池の容器を突破して外の世界に噴出しようとしていたのだ。
科学者は慌ててその試作品を破棄した。
次に作った試作品の中には、例のエネルギー粒子の集合を意図的に誘発して、それらがあまり大きくならないうちに自壊するような仕組みを組み込んでおいた。
これで、乾電池の暴走はなくなり、安定して電力を供給し続けることだろう。
もちろん、それも容器の中のリソースを使い切るまでのことでしかないのだが――
つまるところ、作者が提示するのはそういう宇宙観なのです。
そしてそれは、恐らく正しい。
宇宙自体が巨大な閉鎖系である以上、どのような道筋を辿ろうと、最終的な結果は「滅亡」の二文字以外にありえないのです。
であるならば、主人公たちの奮闘には欠片の意味も報いもなく、そしてもちろん救いもありえない。
運悪く救われなかったのではなく、最初から救いの可能性がなかった。
四百ページ以上に渡って描かれてきたのは、つまりは作者の穏やかな絶望なのだと思うのです。
そんなどうでもいいことはどうでもいいのです。
ここで強調しておきたいのは、この話における主人公たちがブッダと阿修羅王とプラトンだということです。
彼らは何者かにサイボーグ化され、遥か未来でキリストと大バトルを繰り広げます。ワァーオ!
これだけでも相当ひどいですが、なによりひどいのは阿修羅王がボーイッシュな美少女になっているということです。
どんだけ想像力豊かなんだよ!
阿修羅王は両手を後にまわして腰をかがめ、あごをつき出した。大きな双の目が皮肉の色をたたえていきいきとかがやいた。
作者・光瀬龍先生の恐るべき萌え力(ぢから)に戦慄すら感じる今日この頃です。
ひどい! これはひどい!
ワァーオワァーオ!
萌えなどという言葉すら存在しない時代にこんな文章を書いていたことを考えると、もしも光瀬先生の青春時代が現代だったならば、もはやオタクという言葉すら生ぬるい、萌えの神として君臨していたであろうことは想像に難くありません!
これはひどい闇属性です!
恐ろしい!
私は恐ろしいです!