そもそも「面白くする方法」は個々の物語によって違うと思うので、一般論的に論じることは不可能ではないか
ほんでだ、シロガネのラフ画を公開しつつ俺がなんかくっちゃべる記事の第一回を上げた。俺の文章は読み流していいから見てね(はぁと) あー、そんで、『「感情」から書く脚本術』を読み始める。あのー、なんか前書きで、「なんか書式に則って項目を埋めるだけでいい脚本になると思ったら大間違いだ」的なことが書いてあり、まぁ、せやなぁ、と思った。それらの方法論は、箸にも棒にも引っかからない物語未満のものになることを予防する効果はあっても、面白い物語にする効果はないと俺も感じていた。面白さとはそんな単純な理屈で説明できるようなものではないのだと。というか、「こうすればつまらない物語になる」ということはいろいろと論ずることは可能だが、「こうすれば面白い物語になる」を論ずることは不可能であるというのが、現時点での俺の結論である。「こうすれば必ず面白い物語になってサクセス! メイクマネー!」とかゆってるハウツー本はことごとく嘘つき、とまでは言わずとも、不十分であると感じてきた。そして――それとまったく同じことが本書の前書きには書かれていたのである。ふむ。俺はカイゼル髭をしごいた。お手並み拝見と行こうではないか。何が面白い物語なのか、まだ俺が知らない、妥当性のある知見が出てくることを願う。
時間切れ。
(なんで偉そうなんだお前)