螺旋のモノリス~京都湯けむり殺人神父ラヴィニ―のドキ☆釘付け魅惑大胸筋~

小説書きでミニチュアゲーマーが何の生産性もない無益なことばかり延々とくっちゃべってるブログ

うーむ、うーむ

 こういう記事を書いて、公開した直後に思いつくのだが、人類が幸福を認識するメカニズムの観点からの反論が考えられうる。幸福とは、「前と比べてどうだったか」という比較でしか認識できないのである。ということは、救済系ラスボスによって人生が幸福一色になった場合、そりゃ最初は喜ばれるかもしれないが、一瞬でその幸福は「慣れ」と「飽き」によって貶められ、幸福でも不幸でもない灰色の凪と化すであろう。俺たちは不幸があって初めて幸福を認識できる。俺たちから幸福を奪うな――という理屈である。これを明日のnoteで論じてみようか。しかしそれだけでは短すぎる。他に、なんかないかなぁ。あとは、「俺たちは救済に値しない。罰を受けるべきだ」とか? しかしそれは主人公の独善である。ある意味ラスボスよりもおぞましい。あー。えー。進撃、だいぶ見進める。これは最後が近いからモチベが湧いてきているせいもあるが、まっとうに面白くて続きを見たいからでもある。いいことだ。ジーク氏が唐突に仲間になってしまったわけであるが、彼の思想はいかなるものであるのか。エルディア人の解放が目的だというのなら、両親を破滅させたのはいかなる思惑があってのことか。父親の方法ではエルディアを救えないと考えたのか。

 

 時間切れ。

 

(エレンに「親父の洗脳から解き放ってやるからな」と言っていたのは何なのか。どうもわからねえな……)